東北大学大学院生命科学研究科 植物分子育種分野 渡辺研究室

14.「意味の変容」(文:小松澤亮晴)

2021年1月 9日 (土)

1.挨拶

 こんにちは、小松澤です。通常の記事はこれが最後になると思いますので、今回は森敦の「意味の変容」を紹介します。これは森敦の代表作「月山」の哲学的思想を書いたもので、カミュでいえば「異邦人」に対する「シーシュポスの神話」にあたります。ここで語られる思想は「境界論」とでも呼ばるべきもので、手短に説明していきます。

「任意の一点を中心とし、任意の半径を以て円周を描く。そうすると、円周を境界として、全体概念は二つの領域に分かたれる。境界はこの二つの領域のいずれかに属さねばならぬ。このとき、境界がそれに属せざるところの領域を内部といい、境界がそれに属するところの領域を外部という。」

「内部+境界+外部で、全体概念をなすことは言うまでもない。しかし、内部は境界がそれに属せざる領域だから、無辺際の領域として、これも全体概念をなす。したがって、内部+境界+外部がなすところの全体概念を、おなじ全体概念をなすところの内部に、実現することができる。」

「いま、中心をOとし、半径rの円を描く。Oから任意の直線を引き、その線上の円内に点A、円外に点Bをとり、OA・OB=r^2とすれば、円内の任意の点には、必ずこれに対応する円外の点がある。」

上は引用です。簡単に言えば我々が通常考える全宇宙が境界によって内部、外部に分かたれるとき、その内部もまたもとの宇宙と完全に同質で無際限の小宇宙となる、ということです。これは数学で認められていることで、例えば1cmの直線に含まれる点の数と1m^2の平面上の点の個数は等しいとされています。とすれば、1cmの直線の点の数と地球平面上の点も等しいですし、またそれぞれの点は「対応」する(個数が等しいという証明はこの「対応」による)ので、地球平面が1cmの直線に実現されるということがかくして示されたというわけです。ところで、宇宙の内部に小宇宙があるのなら、小宇宙の内部にも小小宇宙があり、という風にこれは無限に続いていきます。たとえばヘーゲルはこれを「das Unendliche:真無限」といっていますし、仏教の「華厳経」の時点でもこれは言われていました。曰く、「一即一切」(「一切即一」とも言い切っています。こういうことを、「色即是空、空即是色」のように必要十分条件できちんと語っていた仏教思想には驚かされます)と。また、カフカはこの内部から外部への「越境」を試みていました。彼の作品にはKという名前の人物が登場します。Kというのは「無限」を表す際に使われる文字で、例えば任意の数Kより大きい数が必ず存在するとき、それを無限大といい、逆の場合を無限小といいます。Kといえば漱石の「こゝろ」にもでてきました。彼は今どうしているでしょうか。しかし無限というものは我々が到達できないものです。漱石から芥川を経て、その先を我々が知ることはないでしょう。「下人の行方は誰も知らない」のですから。


~目次~

1.挨拶

2.経過観察

3.結び


2.経過観察

 では、ようやく全作物を収穫していきます。この日は種をまいてから合計で85日目(1月8日)となります。

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ふたつとも、とうとう収穫してしまいました......。小松菜は5株、芭蕉菜は4株とれましたが、それぞれの株は店で売られているようにはまとまっておらず、葉っぱが放射状に広がっていました。言いたいことが伝わっているかどうか不安です。そして、これはほんとにどうでもいいことで、全く私的な内容なのですが、小松菜の葉っぱが自分は好みでした。

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いちばん大きい葉っぱをそれぞれ定規にあててみました。芭蕉菜はおおきく育っていました。そのぶん他の葉で黄色くなってしまっているものが多かったです。そして小松菜はどの葉っぱもある程度同じ大きさになっていたのに対して、芭蕉菜はそれぞれの葉っぱの大きさ、またそれこそ色がばらばらで、そこが不思議に思いました。

 また、ベビーリーフの方も三回目の収穫ができました。これも85日目です。1回目、2回目と比較して、収穫できた葉っぱの種類の割合が違くなっていたのがおもしろかったです。具体的に言うと、最初は赤葉のものが多く取れ、後の方は小松菜っぽいものが多く取れていました。

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 他に気づいたことは、水やりのときに鉢の下から出た水が、この時期だと凍ってしまうということと、鉢の中の根っこが写真のように鉢の隅々にまで行きわたって、なんだかすごいことになっていたことです。この根っこからは、いちばん、なんといいますか、「生命」というものが感じられました。底の方になるともはや根っこ以外には何も見えません。「挨拶」でも触れましたが、考えてみれば、鉢というものもそれを境界として内部と外部を形作るものです。そうして密閉された内部には境界は含まれず、無際限の全体概念をなします。とすれば、この鉢の中にあった根も、葉などの露出部分と同様、無際限の果てに向かって成長を続けていたことでしょう。この不思議な曲線を描いているこの根から、なにか幽玄なものが感じられるのは果して私だけでしょうか......

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3.結び

 以上になります。なんだかずいぶん長いことこの野菜たちを育てていたように感じられましたが、収穫はあっさり終わってしまいました。この栽培を通して学んだことは、今度の最終報告で書くことになると思いますが、今後なにげないふとした瞬間に、ぱっと気づくというようなことがあるかもしれません。それでは、通常の記事もこれで終わりとなります。ひとまず、ここまでコメントでアドバイスをしてくださった尾形さんに、それからもしいましたら、この記事を毎回見てくれていた人に対しても、感謝をしたいと思います。

コメント

小松澤さんこんにちは

 展開ゼミの報告という形を取り、本の紹介をするという独特のスタイルを続けてこられましたね。これはこちらも予想外のことで、度が過ぎれば報告の体をなさないのですが、そこまで至りませんでした。そして報告の内容と微妙にからんでいる所がまた面白くて私も楽しみにしていました。おそらく外部読者も楽しく読んでいたものと思います。このような理系の報告で文学作品の考察が読めるとは良い意味で予想外でしょう。

 なんについても言えますが、人間の人となりが分かるとがぜん興味を引きます。これはよくある生産者の名前付き野菜でも同じことです。

 さて今回の本の考察ですがなかなか深いですね。私が思ったのは、こういった思索というものは現実主義者から見ればただの遊びでしょう。しかしそういう思索を飛ばすところがまさに「人間らしい」ところであり、そうであればむしろ王道です。よく大学の学問はいくつもあれど「哲学」と「数学」が至上のものであって他の工学農学はどちらかというと生きるための方便という比重が高いと言われます。だからどうということはないのですが、大学に哲学はふさわしいものです。

 今回の話自体は、論理としては分かるのですが、「小宇宙の内包」...... 理系脳には素粒子内の次元縮退の話にも感じられるのですが、おそらくそれは矮小な判断であり真の無限を考えるべきだろうな、と思います。

 植物の方はとうとう収穫でしょうか。過去展開ゼミでは栽培期間を長くする方向はあれど最終報告前に収穫というのはありませんでした。まあ、今年は大寒波の影響で植物もかなり傷みましたのでそういうパターンもあるのかな、と思います。報告自体は最終報告というのは「まとめ」という意味であり時系列的に終わりにしろということではありません。収穫までしてしまうのが最終報告に必要なのではなく、むしろ過去には来夏まで引っ張った例もあります。

 収穫物はコマツナは大きくないけれどそこそこの品質に見えます。対してバショウナは少し元気が無く、葉の大きさもバラバラ(環境が良くないときに葉が大きくなりきれなかったのかも)、縁が黄色になりかけたものもあります。ここから比較して栽培のしやすさや強さを考えればいいですね。

 ベビーリーフの三回目の収穫とは凄いことです。赤っぽい品種に移り変わったのは微妙に生育ペースが違うためでしょうか。植物にもラピッドスタート型とスロースタート型がありますから。それは必要とする日照量や生存戦略に関係する個性というべきものですね。

 鉢をすっぽり抜くと、根がすっかり回っています。地上部がこの大きさでも地下部はこれほど成長しているものです。現象をそのまま見るのでなく、それ以上に哲学的考察をするのも凄いです。将来、何かの講演をする、あるいは小論を書く、その際のネタに使えるかもしれません。例えばですが「ここで『成長』について語ろうと思う。目に見えるところと、目に見えないところ、つまりは根の......」とか。

 さて最終報告のコメントは教授が書きますが、むろん私も見ますので楽しみにしています。

ラボスタッフ・オガタ

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