東北大学大学院生命科学研究科 植物分子育種分野 渡辺研究室

冒険、総合学習、悟り(8/26)

2014年8月26日 (火)

 出張に出かけても慌ただしくて、移動中はほとんど、パソコンに向かっている。揺れる中で画面を見て、調子が悪くならないですかということをよく言われるが、慣れなのだろうか。そうでもない。ただ、座席のテーブルの上に置いてkey boardを打つのは、どうもよくないと思う。膝の上なら、大丈夫。自分の搖れとパソコンの画面の揺れが一致しているからかもしれない。いずれ、こんなことができるのも、パソコンが軽量化されて、長時間駆動できるようになったからこそ。便利といえば、便利であるが、一方で、移動中に新聞、雑誌をめくる時間がなくなった。そこから得られる情報源は、パソコンとはちがうということもあるので、何とか時間を作りたい。新聞、雑誌は、コンビニとか、キオスクでgetすることがほとんど。ただ、先日の鹿児島出張の飛行機では機内誌、横浜出張の時は何というのだろうか、冊子が入っている。ほとんど時間がなく、めくることない。何より、のっている時間が、1.5hr程度。何かしていたら、めくる時間もない。そんな冊子であるが、蝦夷地図を作成した伊能忠敬、間宮林蔵のことが記されていた。偶然だろうか、後日、新聞記事でも類似の記事をみつけた。当時、津軽海峡を渡るということは、今でいうどれくらいなるのだろうか。かなりの冒険である。そうした中で、当時使われ始めた「天文測量」ということが記されてあって、緯度1度でどれくらいの実際の距離になるかを理解しようとしたと。。。1800年代の話しである。あまりに感動した。さらに、間宮林蔵が鎖国の時にもかかわらず、南千島列島、樺太、沿海州の黒竜江流域も調査したと。まさに、冒険だなと。冒険ではないが、江戸時代のこの頃には、変化アサガオも流行していた。メンデル遺伝を知っているわけでもなく。。。これはこれで植物の本質を知ろうとする冒険なのかもしれない。

DSCN0719.JPG 冒険といえば、小学校の頃、学校の校区内だけを遊ぶことは希で、その境界を越えて、隣の校区へ。さらには、隣の市町村へ。昔の朝倉村と周桑を結んでいたトンネルを越えて、帰りは海沿いの国道を自転車で帰ることが、子供の頃の冒険だったと思う。トンネルをぬけると、周桑平野がきれいに見えて、坂を一気に60km/hr以上で走った。今考えれば、結構無謀なことをしていた。また、カブトムシ、クワガタムシを探しに、同じように色々なところに行った。腐った椎茸の生えていた木の中にさなぎを見つけたときは、感動した。今となっては、それがどこだったのか、はっきりとは思い出せない。そんな子供時代を過ごしたことだったり、そもそもその時代には、小学校なら、国語、算数、理科、社会、体育、音楽、家庭科、くらいだろうか。あと、道徳の時間。雨が降ると、5, 6年の担任の先生は、大学時代のお化けの話をよくしてくれた。壁から血が流れるとか。。。その大学にも10年以上前の出張でおじゃましたことがあった。こんなところがと。。。もちろん、時代が違いすぎるので、壁から。。。。ということは起きないわけであるが。。。1970年代に小学校時代を過ごしたものには、2002年から始まったという総合学習の時間というものが、ぴんとこない。新聞記事によると「課題を見つけて、解決する資質・能力」とある。世の中から自然が消えたからだろうか。そんなことはない。今でも、セミを捕ることはできるし、カブトムシも。仙台でも郊外に行けば、可能であろう。カブトムシを捕まえるという課題を見つけて、それをどうやって達成するか、ということであろう。その時に、機能していたのは、先輩からの教え。そうした先祖伝来とまではいかないまでも、伝わったものを大事にして、ここに行けば、こんなことがあるというのを聞いていたから。ただ、そこでどうやって捕まえるかは、それぞれのidea勝負。クヌギの木の穴に入ったクワガタムシをgetするために、指を犠牲にして、かみつかれて、引っ張り出したことも。これが解決する資質・能力のような気がする。子供の頃、自然の中での体験をすること、バーチャルでなくて、それが大事な冒険であり、周りの環境を考えて、どうしたら、getできるか、ということを総合的に考えていたような。そんな時代にすることはできないのだろうか。。。もちろん、新聞によると成績向上という効果があるようであるが。。。指を犠牲にしてgetしたのでは、成績向上は。。。計ることが難しそうである。

DSCN3559a.JPG そんな子供時代には、ずいぶんと殺生をした。何を、どの様にとは。。。お許し下さい。殺生をしないというか、よくセミ、カブトムシ、クワガタムシを捕りに行った「お寺」ではもちろん、殺生など、もってのほか。。。。そんなことよりも「悟り」を開くところのような。夏休みだったろうか。お寺で習字とか、座禅とかあったような。。。なんともいえないつらい思いでしかない。字が上手にならないし、足がしびれるし。。。ただ、2度ほどであろうか、座禅をすることがあった。何が見えるというか、悟りが開けるのか。そもそも、そんなことを考えてはいけないのかもしれない。そんな時、科学者の魂、科学を論じる、アインシュタイン、悟りというようなことを束ねた読み物をnetで見つけた。科学を考えるなら、量子力学を学ぶことがとあった。「???」であったが、パソコンなどの半導体を考えると、確かに「量子力学」である。だれもが使う弱電の家電にも半導体はある。ただ、渡辺を含めて、その中の「量子力学」はスルーしている。それではいけないのであろう。もっと、科学を語ることをしないと。日本では宗教・哲学は「悟り」の方向と思う。西洋で宗教・哲学は。。。「科学」とか。「????」・その科学の道を極めたものに与えらえしものが「Doctor of Philosophy (PhD)」の起源というの聞いたことがある。だからかどうかわからないが、その先の読み物の中に「ニュートンが悟りを求めていた」と。。。ということは、悟りと科学は同じことなのだろうか。。。よくわからないが、ある種の道を極めるためには、頂点を目指して、その先を目指す、これを通じて、新しい境地を見いだせるような気がした。夏休みもあと5日と数えるのは、子供時代の感覚が抜けてないから。仙台ではもちろん、学校は始まり、愛媛でも土曜日半ドンがない関係だろうか。8月中に2学期が始まるとか。。。早めに宿題を済ませて、秋に来るであろう別の宿題に取りかかる準備をしないと。とおもった、8月終わりであった。

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 わたなべしるす



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