こんにちは、宮城第一高等学校の金川恵都です。
このブログを書くまでにかなりの時間を要してしまいましたが、この第三回の活動記録から定期的に書かせていただこうと思っている所存です。
さて、今回日英高校生サイエンスワークショップ発表会と名付いた、研究発表会がありました。其々の思う疑問とそれをどう解決して行くのか、どのような行程を踏んでそれを行うのかを各チームの発表で話し合い模索して行く。そこから生じる各々の個性や考え方は発表形態にも現れていました。ただ決められた内容、形式から答えを探すよりもこのように「個人」が自由に考え発表する方がよっぽどやりがいを生むのだと感じました。
この中から私自身も「これはどうなのか。」と考えさせられたり、周りの人とも話し合った内容を話したいます。
「Analysis of difference of speech emotion between English andJapanece」
これはかなり考えが割れる研究なのでは無いのかと思いました。これには私の周りの人も似た考えを持っていたようで、「調べる条件の対象が少ないのでは無いのか。」や「書かれた台詞の感情移入でそれはまとまるのか。」と色々な視点から「ここを調べて知りたい。」という声が上がりました。しかし私自身の意見を言うと、決してこの研究のやり方は間違ってはいないと思う上、結果を見て自分の今までの経験と合わせて考えると、「確かに日本人の怒りは周りから見ると怒りでは無いとは思う。」そんな考えに行き着きました。しかし「若い科学者」の思考に引っかかった理由は対象が「人」であったと言うことです。
「ならば何も言葉を話さない、感情があるのかもわからないと言われる動物を対象にしろと言うのか。」
そう思う方もいらっしゃるでしょう。
違います。
「人」が「人」を研究することよりも難しいことはないと思うからこそ、そう思ったのです。
実際問題「今この人このような気持ちだな。」とはっきりわかる人はいません。そして「
人」の「怒り」「喜び」「悲しみ」等々の判断基準は誰かに統制されているわけではないです。その基準は「一個人」が「自立して」長い時間と共に創り出した産物です。
つまり人其々の者を「一つ」と見做し、「数人」での実験から答えを導いたのが私達「卵」に引っかかる成分となったのだと思いました。もしこの実験に付け足せるのだとしたら、それは対象者の考え方や価値観を条件の一部にして、それと似通った「人」との判断であったらまた違うものが見えたのではないかと思います。
このようなただ研究の内容を聞いて「そうなのか。」と思うだけではなく、疑問を持ちどうすれば蟠りの解決に至れるのか考えることはこれから「科学者」になるかもしれない私達にとって必然のものであるとわかりました。そしてある「対象」に対して何を「必要条件」にするのか、それはどの研究に関しても必要であり、一つ足りないだけで他の視点からの欠如部分がわかってしまうものと考えます。その為自分が研究するときにも、他人の研究を見る際にも、「必要条件」の欠如がないか「多方面からの視点」を忘れないようにしたいなと思いました。
そしてその「多方面からの視点」の強化の為に、語学方面の勉強にも力を入れて将来を見据えていきたいと思いました。
投稿者:宮城県宮城第一高等学校