どうも。
青森県立青森高等学校の超A級四択問題スナイパー、
新岡 昂也
(ニイオカ コウヤ) です。
すっかり秋になってしまいました。なってしまったはずなのに、青森はまだ暑いです。いい加減にしてほしいですね。
読書の秋、スポーツの秋、勉強の秋。勉強は一年中やろうよ
となると、「考査の秋」でもあるのでしょうか。全国的に考査が(偶然なのか)だいたい同じ時期に行われたように思われます。これまでは結構バラバラだったはず。
現に、福島出身の友人も最近考査があったと言うし、「卵」で他校の人と話をしたときにも結構その話題が出てきました。
例に漏れず、青森高校でも先週に中間考査が行われました。あー嫌だなーテスト。本当に。
期末とは違って技能教科系は出題されないにしても、九科目のテストにはまだ慣れた感じはしません。みなさんもう慣れました?
というよりも、大幅に増えたテスト範囲に慣れていないんだと思います。これまでは国数英社理の五教科オンリーでよかったのが、例えば国語が古典と現代文に分かれたり、数学もテストは二日間行われるようになるなど、その分範囲が増え対策が大変になり、また自分なりの対策法を確立できていないからなのかなぁーーーと、思います。
早いとこコツをつかみたいです。今回は前回よりも手ごたえっぽいのを感じることができた気がします。この感覚を大事にしたい。
テスト(というきっかけ)は幅広く知識をインプットすることよりも、「いかに工夫して自分の学力を伸ばそうとするか」という「試行錯誤」にこそ意味があるんじゃないかと考えています。
実際の先生方にとっての意味は分かりませんが、個人的にはそうだと思っています。
トライ&エラー、PDCAサイクル、OODAループなど、社会人は「分析」を大事にしているらしいと聞いたことがある気がします。僕もそう思います。
「反省」なくして「真の実行」というものはないんじゃないかと思います。
過去を振り返らないで行き当たりばったりのように進んでいくことは、進むにしてもかなりの遠回りになってしまいます。
そして、高校生で居られる時間というのは思ったより短いです。三年間もあるといっても、その大半は睡眠だったりで、実際に自由に使える部分はかなり少ないです。
その少ない時間をやりくりして上手に自分自身を成長させるには、やはり「反省」だったり「分析」だったりをきっちり行い、次につなげるための土台を固める必要があるのではないでしょうか。
どんな立場のひとでも平等なのは「与えられた時間」だと本田宗一郎は言っていたらしいです。しかし、「時間はつくるもの」だとチャールズ・バクストンは言っていたらしいです。
本質的には、何でも、モノは使いようです。与えられたものは同じでも、使い方の工夫次第では自分をより飛躍させることができます。
もうすぐ一年が経つんじゃないかってくらいの時間の流れの速さを実感じます。これから後悔しないように、日々しっかり考えながら生活したいです。あと頑張って点数を伸ばしたいです。
さて、「卵」に戻りましょう。
今回の講座は、
サイエンスカフェ「科学・社会・生命倫理」
1.「化学反応の場を探る~マテリアル・デザインと新物質探索~」
2. 京都大 - 東北大共同企画(パネルディスカッション)
の三本立てです。
今回は「サイエンスカフェ」。東北メディカル・メガバンクでも活動されている長神 風二先生プレゼンツでした。
あ、もちろんインタイムアライヴできましたよ。成長ですね。
さて、このサイエンスカフェはやっぱり「カフェ」なので、カフェはカフェらしく食堂の隣にあるラウンジ(名前知らないしラウンジでいいのかすらわからない)で行われました。
とても新鮮でした。もうなんかすごいオシャレ(語彙力)
長神先生も「飲み物でも飲みながら、気楽に」と言ってくれました。そんなゆる~い雰囲気にこのテーマ。
「科学者の『責任』とは?」
えっ......(困惑)
少しばかりか場が緊張感に包まれた感じがしました。全然ゆるくねぇ!!!!!
でも「気楽でいいよ」という言葉がなければもっとガチガチになっていたかもしれません。むしろ科学者にとってはそれほど自然な問いで、また難問でもあるのでしょうか。
要するに、「科学者は科学に対してどこまで責任を持つべきなのか?」という問いです。
科学によって生み出された技術というのは、人々の生活を便利で豊かにできるほどの強大な、とてつもなく大きなエネルギーを秘めています。
しかし、世の中には、そのエネルギーを人に迷惑をかけたり、人や環境を傷つけるために悪用する人がいます。
このことに関して、発展の中心にある「科学」を研究する「科学者」はどこまで責任を負うべきなのか、ということなのです。
意見は主に二つに分かれています。
「研究者は研究成果を世に問う。そこに正邪は無く、あくまでも使い道を考えるのは社会の側」というものと、
「準備のない社会に、"何にでも使える"ものを投げ込むことこそ無責任」というものです。
例えば、遺伝子組み換え技術は、上手く使えば劣悪な環境でも育つような作物を作ることができますが、悪用すれば某BIOHAZARDのような生物兵器だって生み出すこともできる、という感じですね。
個人的には、科学者は科学に対してある程度責任を持つべきだと思います。
確かに、「良い活用法」よりも「悪い活用法」のほうが考えやすかったり、むしろそっちのほうが「楽しい」とは僕も思います。
現状の生活に(不便がないので)まあまあ満足できるようなくらいまで発展した現代社会において、あとどこが便利になるかというのを考えることはなかなか難しく、想像も働きません。それよりだったら、悪いことを想像するほうが容易だと思います。その結果が、「楽しい」に繋がってしまうのだと考えます。
実際サイエンスカフェでも、「良い活用法」よりも「悪い活用法」のほうが考えやすい、というのを経験しました。あまりのギャップに自分でも驚きました。
他にもそういう人がいた(のかな?)らしく、それを俯瞰していた長神先生も「悪いことを考えているほうが生き生きしていて、すごい楽しそう」と冗談交じりに言っていたのを思い出しました。
人間は、楽で楽しいほうに流れがちであると、どこかで聞いたことがあります。つまり、楽しいこと(=悪いこと)のほうが、これから先たくさん生まれやすいのではないかと考えます。
というように、こういった人たちもいるので、科学者の側でもある程度使われ方を想定したり、またその対策法も制定したほうが良いのではないかと思います。
要するに、「すぐにガイドラインをつくる」ということです。悪用というのは、想定されていない使い方をされるから悪用なのでしょうが、あらかじめ悪用のされ方を考えておけば、かなりの悪用を事前に防げたり、また新たな悪用への対策法にもつながりやすいのではないかなと考えます。
そして、技術が発達することで、今までになかったようなことも実現できるようになるわけです。
しかし、「それって『倫理的には』どうなの?」というものも実現できるようになりました。
その一例が「Designer Baby」です。
要するに、受精卵の遺伝情報を「編集」することで、親の希望通りの子供が誕生する、というものです。
結構フィクションとかでは見られますよね、こういう話。
たしかに、遺伝子を編集すれば、悪かった運動神経はよくなり、いまいちパッとしないような声も大塚明夫のような低音イケメンボイスに編集して次の世代、自分の子供に引き継がせることができます。
しかし、そうやって自分の「編集された」遺伝子が入った子供は、果たして「自分の」子供なのでしょうか?
たとえ運動神経が悪くても、イケボでなくとも、もはやそれこそが自分を自分たらしめる「特徴」なのではないでしょうか?
そしてそれは、誰が何のために行うのでしょうか?時代が変われば、イケメンの定義もイケボの定義も変わります。そんな先のわからないものにまかせて新たに生まれる一人の人生を変えることは問題ではないのか?ということです。
まあそんなことを言ってしまえば、「倫理観」というものも、ある程度は、まるで時代のように移り変わるものではないかなと思います。
何が正しくて、何が間違いかなどというものも、時代によってはいくらか異なる部分もあるわけです。
もしかしたら、それにこの「Designer Baby」が当てはまり、「別に問題のないこと」「正しいこと」に認識が変わるのかもしれません。
しかし、時代を経ても、変わらない「倫理観」というものはあると考えます。そこを上手く見極めていくことが、科学者のするべきことではないでしょうか。
どんな技術も、使いようです。使い方を見極めれば、それは人類の発展に大きく貢献します。一方で、見極めを間違えれば、人類にとって害となってしまいます。
そのためには「普通の感覚」を忘れないことが大事になってきます。
もしかしたら、変わらない倫理観というのは、「普通の人」の感覚に近いものなのかもしれません。
人は何かに熱中すると、周りが見えなくなりがちです。そんなときにこそ、一歩引いた視点、俯瞰した視点で物事を捉えなおしてみることが、これもまた大事になってきます。
また、その「視点」を増やすためにも、日々アンテナを張り、様々なものに触れることで、経験を積む必要があります。
これから科学と長い付き合いをしていく上で、これらの問題とは切っても切れない関係になると思います。
だからといって、この難問から逃げることは、あってはならないと考えます。
科学者になるのであれば、むしろ科学者にならなくても、一人の人間として真摯に向き合い、そしていつか自分なりの「答え」を確立していきたいと思いました。
お昼を挟んで次の講義です。今回はかき揚げ丼にしました。めちゃくちゃうまい。あと例のあの人と(主にガンダムで)熱く語らいました。やったぜ。
さて一発目。
「化学反応の場を探る~マテリアル・デザインと新物質探索~」です。
英語力がすごい滝澤先生による講義でした。僕も頑張りたいです。
「あたらしい『材料』を創るには?」というのが今回のテーマ。
あくまでも「材料を創る」のが工学の仕事である、と滝澤先生は言っていました。「物質の性質」の分析は理学の仕事であるそうです。
判明した物質の性質をどう活用して、どのような画期的な材料を生み出すか、というのが、工学の醍醐味だそうです。いいですね。
しかし、科学が発達し始めて数世紀が経てば、大抵のものは出尽くしてしまっています。そうすると、普通の環境では新しい材料が生まれないわけです。
じゃあ、「環境」を変えちゃえばいいじゃん!!!
というのが「極限環境下」での材料創製につながる考え方です。
では、それにはどういったものがあるのか?今回は、主に二つの例が出てきました。
一つ目は、「超高圧力場」です。
その例として、「人工ダイヤモンド」があります。ダイヤモンドと鉛筆の芯は、同じく炭素からできていることは有名です。
では、何が違うのでしょうか?
それは、原子同士の「結びつき方」です。
簡単に言うと、黒鉛(鉛筆の芯)に生えてる腕は三本だけど、ダイヤモンドになるとそれが四本になり、最終的には全体の構造も二次元的なものから三次元的なものに変わる、ということです。
ちなみに、ダイヤモンドが生成されるところにはかなりの圧力、それも比じゃないくらいの圧力がかかっていることも知られています。
つまり、それを再現できれば、人工的にダイヤモンドを創れるのではないか、ということなのです。
そして皆さんの知っているとおり、人工ダイヤモンドは完成しました。やったぜ。
そして、これを「ほかの物質に応用するとどうなるのか?」ということです。
超高圧力場では、酸素だろうが窒素だろうがすべて「金属」と同じ扱い、つまり「普通の大気圧下とは違う扱いになる」ということが知られています。
つまり、これこそが、「新物質創製」のヒントの一つ目となるのです。
その結果生まれたのが、ネオジム磁石よりも磁力の大きい「磁石」です。
磁石は、結構、いや密接に私たちの生活と結びついています。冷蔵庫にメモを留めたり、こう、なんか引き付けて遊ぶだけではありません。
発電機、モーター、IHヒーター、果てにはリニアモーターカー(まだ)まで。様々なところに使われています。すごい。これからの発展に期待です。
そしてもう一つ、「マイクロ波」です。
身近なものでいえばやはり「電子レンジ」ですね。いつもお世話になっております。
電子レンジはマイクロ波によって加熱する、これまでにはなかった新しい加熱方法です。
電子レンジは発したマイクロ波で水分子を振動させてその摩擦熱でご飯をあっためることはよく知られています。しかし、振動させられるのは水分子だけではないそうです。
またその加熱のされ方も、熱伝導のようではなく、どちらかというと「自己発熱」に近いものであることが知られています。
そしてもう一つの特徴として「特定のものだけ温められる」ということが挙げられます。
お茶碗などの瀬戸物なんかは水分子が入っていないので、電子レンジに入れても熱くならないのはこういう理由です。(ご飯の熱が伝わることはある)
要するに、「片方は冷たいけれどもう片方はめちゃくちゃ熱い」ということが実現可能になったのです。
これこそが第二のヒント「加熱方法を変える」です。電子レンジが世界を変えるのです。すごいですね。
この二つのことによって、今までは理論上のものでしかなかった、つまり「机上の空論」であった新物質創製が可能になりました。
「もうこれ以上は発展しないでしょ~~~」という考え方では、このような、いい意味で意表を突いた画期的なアイデアは生まれてこなかったと思います。
粘り強く向き合っていくことを、これからも大事にしていきたいです。
技術革新は新物質創製と密接に関係しています。これまでになかった画期的な材料が、様々なことを可能にしていくのです。
「There is still a lot of undiscovered new compounds with promising functionalities.」
ラスト。
京都大 - 東北大共同企画(パネルディスカッション)
です。
まさかの夢のコラボレーション。
「これからの科学、社会を考えよう!!」
というのがテーマ。
この他にも、貴重な体験だったり経験を様々聞くことができました。ん?高速フーリエ変換?
質問4。「科学は社会・世界を幸せにするか?」
松岡:わからない
飯田:できないならやめるべき
神田:科学は人を幸せにするための道具である
山中:幸せにしなくてはならない
西貝:局所最適解。幸せは相対的で主観なもの
という感じです。
単純な「はい」「いいえ」で終わらなかったのが印象的です。かなり哲学に近いなと思いました。
科学は人を幸せにするほどの強大なエネルギーを秘めているとは僕も思います。
重要なのはその使い方で、もしそれを間違えれば、人を傷つけてしまいます。
そうなってしまった科学はもはや真の意味での科学ではないのかもしれません。
ここら辺はサイエンスカフェとも繋がってくることですね。
今の時代、科学の力なしには何もできないくらいに社会は発展しました。科学の影響力も非常に大きくなりました。
科学を扱うようになるのであれば、そういった社会への影響を、私たちは考えないわけにはいきません。
確固たる目的をもって科学と向き合うことができて初めて、科学は私たちに恩恵を与えてくれるのかなと思います。現に五人の方々は、自分のこれからのビジョンだったり目的だったりがハッキリしていたように感じました。
というか科学に限らなくても、目標、目的もなくただ何かをすることは凄くもったいないことなんだろうなと思います。それと照らし合わせてはじめて、自分は目標にたどり着けたか、どこができなかったか、というように自己分析できます。
そして、次はどのようにすればよいのか、何ができるようになればよいのか、という「目標」が立てられます。
その積み重ね、繰り返しによって、「目的」というのは達成できるのではないかと思います。
常に考えながら、生活をしていきたいものです。
投稿者:青森県立青森高等学校