こんばんは。県立前橋高校2年の山田桂一です。
今回で三件目です。先に予告しておきますが、今回が、活動内容に関しては、最も内容の薄い記事であると思います。理由はタイトルにあるのでもうおわかりかと思いますが、この日私は大きな挫折を味わったのです。
【活動内容】
・Scavenger hunt
・Design challenge
【成果と感想】
この日は挫折の日でした。この前日までは一見順調なような気がしていましたが。この日も順調に聞きとれる英語が増えた、とはいかなかったように思います。
朝、RSAに登校したところからバスで移動するところまでは調子よく進んだ気がしましたが。バス待ちの間に行ったゲームも楽しめました。バス内でも1対1で前日よりもよく話せていました。しかし、そこからの一日は何をやっているのかほとんど理解できず、初日から意気込んで望んでいたはずの積極性も失ってしまい、ずっと日本人と日本語で話していました。せっかく外国に来ていたのにも関わらず。自分の英語力は全くもって海外に通じないのではと疑念を抱き、委縮していました。
Scavenger huntは仙台市とリバーサイド市の姉妹都市としての歴史を感じさせる場所を歩いて回る企画だったようです。その中でハラダハウスを訪れました。ハラダハウスとは、簡潔にいうなれば、アメリカに移住した原田一家が差別を受けるも裁判を起こして勝訴を勝ち取り、しかし太平洋戦争に因って強制収容所への移動を余儀なくされ...という、日本人が、異国の地で、実際に差別を受けていて、それと戦った歴史を表しているのです。これをお読みの方は、この歴史をご存知でしたか?私は知りませんでした。そもそも、日本人が異国の地で差別を受けていたなんて考えて事さえありませんでした。この海外研修にあたって予習してくるように言われ配布された資料を読んで初めて知りました。(本当はその資料のURLも添付したかったのですがどうにも見つけることができませんでした。)日本人として同じ民族が受けた差別の歴史を、同じ民族の闘いの歴史を知らなかったことを恥じています。このようにほとんど知られていない歴史は探せばまだあるのではないでしょうか。国際化を謳うのであれば、異国での日本人の活動の歴史を知る必要があると私は思っています。私はこの日、予習不足のためにハラダハウス前で受けた説明をなんとなく理解できただけ。その他の仙台市とリバーサイド市の歴史を表す場所に関しては、目的の場所が何を示していて、何のために探しているのか、さっぱりわかりませんでした。そのため、その日の街中ツアーでは現地の高校生に意味も分からずついていくだけでした。後日、再びハラダハウスについて議論する機会を設けていただいてようやく理解しました。仙台市とリバーサイド市の共通の歴史についてもっと深く予習しておくべきでした。現地の高校生たちにとっては常識ですが、私にとってはほぼ所見の知識でしたので、同じ土俵に立てるわけなど微塵もありませんでした。
WHITE PARKとは姉妹都市50周年の際に仙台市がリバーサイド市に進呈した日本庭園なのだそうです。今年は60周年の年なのですがなにか進呈するのでしょうか。
また、左端にある標識には様々な都市との距離と方位が示されていました。仙台市までは5373マイルだそうです。
午後は午前中に確認したことに関するモニュメントを作成しました。私は午前の時点からすでに活動についていけていなかったため、何を作ろうとしているのか理解できず、隅の方で小物制作にいそしんでいました。
私の主な担当は真ん中の汚い「友情」の文字と、米国国旗の星(アルミホイルを小さくちぎって丸めただけの代物)と、奥にある醜い花です。
この日、すべての活動が終わった後、迎えのスクールバスを待っている間に尚先生とメンターの方と色々と話し、心構えで劣っていたことを確認し、気持ちを改めることを決意しました。ここからようやく海外研修を楽しむことができるようになったと思います。
さて、ここまでは21日の活動でしたが、ここからはハラダハウスについて少しだけ詳しく紹介しようと思います。
原田一家がリバーサイドの地に来た当時、現地では外国人が財産を所有することを禁じる法律がありました。そのため原田夫妻は現地で生まれた子供の名義で家を買います。しかし、現地の人たちはこのことを快くは思わなかったようで、原田一家は立ち退きを求められます。そこで裁判が起こり、結果は勝訴。このことは移民が現地の法に立ち向かった先例として国際的に注目されたそうです。しかし、戦争が起こり強制的に収容所に移動させられます。悲しいことにここで原田夫妻は亡くなってしまいますが、彼らのもっとも若い娘が戦後ももと居た家を守り続け、近年、街に寄贈したものが現在残っているハラダハウスです。
ハラダハウスは、フェンスに囲われており中に入ることこそできませんでしたが、アメリカの街中の一角に自然と溶け込んでいました。原田一家が現地人たちのすぐそばで戦っていたことを如実に示しているように感じました。
しかし、この歴史を多くの日本人は知らないのではないでしょうか。そもそも、知りたいと思っても機会も方法も乏しいのです。インターネットで検索しても英語で書かれたものばかり。私だったら主体的に検索したところで英語のホームページしか出てこなかったのならば諦めてそっと閉じることでしょう。そのため、今回この歴史について学ぶ機会を与えていただき、現地で考え議論しあった私たちが周囲に発信していくことが大切であると考えています。
投稿者:群馬県立前橋高等学校