ご無沙汰しております。宮城県仙台二華高等学校1年の関百咲です。長らくブログから離れてしまいましたが、明後日の第4回講義にあたり、前回から経験したイベントをまとめてみたいと思います。
まずは第3回講義。サイエンスカフェの生命倫理のお話は、今になって実感がわいています。というのも、北朝鮮の弾道ミサイルはその最たる例だと感じております。新しい技術の開発に関しては、メディアなどで大々的に取り上げられ、ほとんどの人が賛成し推奨される。これに対し、それらの使い道についての議論はそれほど興味も持たれないまま、注目を浴びることはなく進められているように思えます。どちらも同様に重要視されるべきであるにも関わらず。研究成果をあるべき姿で活用されるような社会を作り出すには、私たち一人ひとりが人間としての「道」、倫を正しく認識しなければなりません。
1つ目の講義は航空機の話。正直に言うと、私はこの講義には抵抗がありました。今まで幾度となく所謂「よく飛ぶ紙飛行機」を作ったり、飛行機の仕組みの話を聞いたりしても、ほぼ理解ができなかったからです。しかし浅井先生の解説はわかりやすく、自分の手でレポートにまとめられるほどには理解することができました。昔からずっと、この空は人類のあこがれであり続けているのです。そして今、その空の向こうへ、新たな世界を求めて手を伸ばしている。合理主義的な科学でも、その原動力はまだ見えない世界へのロマン。なんと素敵なパラドックスでしょう。ただ今回は次の講義も含めレポート、特に裏面にかける時間があまり確保できませんした。表面の講義に関するレポートはその内容を理解し整理できていないとすらすらと書けるものではありません。予習は言わずもがな、講義の中で頭をフル回転させて、もっと必死についていかねばならないと実感しました。
2つ目の講義は、磁石はともかく、隕石、原始惑星系円盤......と、航空機に比べるとすこし実生活とはかけ離れた印象がありました。けれどもこれはちゃんと太陽や地球の話。数年に一度しか乗らない飛行機よりも毎日踏みしめているこの星の話です。なぜ予想通り、いやそれ以上に講義はひどく遠い世界ように感じたのか。思うに、それは自分の手で、もしくは目で確かめられないからのような気がします。天体の観測や隕石調査から、生命が存在しないほど昔の太陽系をみてみようとする。科学の力をもってすれば夢のようなこともできるのですね。実際はタイムマシンでもない限り本当のことはわからない。でも、科学的だからこそ説得力のある、信じることのできる話なのだと思います。
第3回を私なりにまとめると。科学は理性を内包していながら、人類の夢と言われるものを次々と叶えてくれる。ただしそれには社会が正しく受け入れ、使用してゆく準備が不可欠、ということです。
続いては東北大学のオープンキャンパスでの経験です。といえども私は2日目しか行けず、しかもほとんどの時間を建築・社会環境工学科に費やしておりました。展示や模擬講義のほかに、建築学科の大学生の方に研究や教授の本を紹介してもらったり、入試相談コーナーではなんと模擬講義をなさった教授とお話しできたりと、非常に充実してしたものになりました。印象に残ったのは、その教授のお話にあった「プレデザイン」です。建築は設計の前に条件設定や計画の段取りを決める段階があります。ここがうまくいってないと、国立競技場のように計画が頓挫してしまうのです。私はもともと建築物のデザインのほうに興味があったのですが、それかそれ以上に重要な役割があると知り、視野が広がりました。
ニュートリノのことについても書きたかったのですが、随分と長くなってしまったのでまたの機会にします。恐らく第4回の講義の感想と一緒になることと思います。
よく考えてみれば、科学の両面価値的性格というのは不思議でもなんでもなく、ごく当たり前のことでした。元来人間が科学を用いたのは知識欲のためです。すなわちそれは自分たちの未知の世界で起こる事柄を解明することで、もちろん理論に基づき確実な信頼性とともに獲得していかないと意味がありません。そして、私たちが科学にこんなにも惹かれる理由がここにあるように思います。人間の脳は「生きたい」「知りたい」「仲間に入りたい」の3つの欲求がもとで働いているといわれていますが、そのうち「知りたい」を十二分に満たしてくれるのです。......という理屈以上に、まだ見ぬ世界への私たちの好奇心を満たしてくれるものだから、多くの人の心を魅了しているのだと思います。
長々と駄文を読んでいただきありがとうございました。偉そうに語ってすみません。次回はちゃんと講義後すぐに書きたいと思います。
投稿者:宮城県仙台二華高等学校