こんにちは。宮城県仙台二華高等学校1年の関百咲です。あっという間に第五回ですね。ブログを書くのも慣れてきました。何かを継続するということはこの慣れというものがないとなかなか苦しいですよね。あと欲を言えば文章力もついてくれるといいのですが。
英語サロンは二回目。私の班は受講生3人に留学生1人と、他より少人数で話すことができました。留学生の方はカメルーンから来られた方でしたが、なまりは全然感じませんでした。カメルーンではたくさんの言語が話されており、学校の授業は英語だったらしいです。また、東北大のある教授に学びたい一心で留学しているとのことで、向学心だけで日本まではるばる来るのは本当に情熱があったからなんだと思いました。医学部でウイルス、特にノロウイルスに対する治療を研究しているそうですが、初めに入った大学ではコンピューターを学んでいたそうです。エンジニアになるのも夢だったけれど、学んでいるうちに、曰く「not comfortable」になってしまった。そしてもう一つの夢であった医師になるために大学に入りなおして、現在に至るそうです。
東北大に留学できるくらいですから、レベルの高い大学にいらっしゃるのだと思います。前の大学を一度やめてまでして、また大変な受験勉強をして難しい大学、しかも医学系に入って、したい勉強をしようとするその姿勢には心を動かされました。自分だったら同じことができるか? と考えると、疑問でしかありません。受験勉強に耐える覚悟やもろもろのリスクを考えると、なかなかできることではないと思います。それが正しいと断言はできませんが、将来同じようになる可能性もあるので、未来を考える良い機会になりました。
一つ目の講義は題名からインパクトがありました。やってみなくちゃ、は聞いたことがありましたが「やってみても分からない」。この意味は最初に教えて頂きました。人間には観察力の精度には限界があり、簡単に錯覚を起こしてしまうのです。以前、仙台市科学館のトリックアートのイベントに行ったのを思い出しました。有名所ですと床が白黒のマス目の部屋を歩くと、人の大きさが変化して見えるものとかですが、一見本当に非科学的な現象が起こったように見えるのです。実際は床の模様がゆがんでいるなど、みっちり計算されているのですが。先生の虹の色の数は国によって違うとか、特に月が太陽の連星だ、という話は驚きました。人間は思い込みしやすく、一つの考え方に縛られやすいのかもしれません。
しかし、こういった世間に「常識」と思われていることを、科学的手法で(先生曰く「計算して定量的に」)検証し、誤りを訂正したりまたさらに新しい発見をしたりするのが、科学者の仕事なのだと思いました。憶測で話す、何事も決めつけてかかる、という人がいますが、その憶測が科学的根拠に基づいていない限りもってのほかということですね。私も理論的に一つずつ考えてものを言う、行動するということを意識していきたいです。
二つ目は分子病理学ということでしたが、実はいつもに増して楽しみにしていた講義でもありました。というのも私は医者になる気はないのですが病気や人間の仕組みの研究には少々興味があり、特に人間のおおもとである遺伝子の話を聞くときは、生命の深淵を覗いているようでワクワクします。実際の講義でも遺伝子の話が中心だったので、聞いていて非常に興味深かったのですが、完全に理解することができず、講義後も友人と話したり資料を読み返したりしていました。印象に残ったのは、細胞周期チェックポイントと、DNA複製時の異常を修復してくれる遺伝子がある、という話です。がんと直接関係はありませんが、人間の体はよくできているな、と思う瞬間でした。ただすべてをチェックできる・修正できるわけではないし、現に遺伝子異常ができてしまっているので、やはり異常の起こる根本を見つける、その治療方法を編み出す学問というのは大事なのだと感じました。
もう一つ心に残っているのは、がん転移の話のうち、がん細胞が骨髄細胞を転移予定先に呼び寄せたと考えられる実験でした。がん転移というと、がん自体がある場所めがけて移動するイメージでしたが(これも思い込みですね)、体の特定の細胞をも操作してしまうのは恐怖を感じました。がんという病気の恐ろしさがこういったところからも分かる気がします。
今回は「見えていないもの」の話でした。一つ目は人間の認知力の限界という意味で、二つ目は物理的に、また未解明な部分の多いという意味で。英語サロンの話は将来のことを考えたので、まだ見えない未来...とするのは強引でしたかね(笑)
それらが徐々にでも解明されていくのは、もちろん眺めているのも楽しいですが、自分の手で解明する方が何十倍も楽しいし充実していることでしょうし、科学者の原動力ともいえるのだと思います。
投稿者:宮城県仙台二華高等学校