6月30日(火)昆明:晴れ
7:00朝食、8:30フロント集合、出発。鳥山先生と佐藤先生は、8時頃に雲南農業大学へ向かわれ、江川は田さんたちと雲南省博物館へ。途中かなりひどい渋滞にあい、省博に着いたのは9時半少し前であった。入館料は他の国内の国立・省立博物館と同様に無料、ただし身分証明書(外国人の場合はパスポート)が必要である。いちど館を出ると同日中の再入場は不可とのこと。雲南省博物館は、今年5月18日に郊外の新館に移転開業したばかりで、旧館の面影はまったくない。1階は絵画美術と企画展(当日は「金色中国―中国古代金器大展―」が開催されていた)、2階は先史時代・青銅器時代・有史~魏晋南北朝時代までの雲南の考古文物、3階は南詔・大理時代以降の考古文物と雲南陶磁器が展示されている。
3階で目を引いたのは、南詔・大理時代の仏教文物の数々である。金堂仏・水晶仏・各種仏具・梵文磚などが多数展示されていた。ただ、いずれの展示品も、由来が説明されていない。伝世品であるにせよ、どこにどのように伝わったものかがわからなければ、歴史資料としての価値を欠くことになる。また、石碑の展示もあるにはあったが、粗悪な模造品が置かれるのみで、真拓すら掲げられていないのは残念であった。
陶磁器の展示室には、日本の常滑によく似た建水陶磁や、染付の一種で明代以後に出現する青花陶磁に加えて、南詔・大理時代の火葬罐が並んでいた。火葬罐とは、火葬された遺骨を納める高さ50~60㎝ほどの壺のことである。中国では、唐代に西域からの渡来僧に対して火葬が行われることはあったが、祖父母父母から受け継いだ身体を焼却するという行為が伝統的な「孝」の観念に反するということで、在家仏教信徒の間に火葬が慣習化されることはなかった。しかし雲南一帯では、かつて南詔・大理時代に国を挙げて仏教が尊崇され、また密教の影響もあって、火葬の風習が民間に拡がり清代まで続いた。華北に比べて木材を入手しやすかったことも要因の一つであろう。このため、こんにち省下の各地から歴代のさまざまな火葬罐が出土しているのである。
1253年、モンゴルのフビライ軍が大理国を滅ぼし、その約20年をかけて雲南各地の少数民族部落をモンゴルの支配下に組み入れていった。以後、元・明・清・民国時代を通して、中央から派遣された宣慰使司などの流官による統治に加え、在地部落の酋長を土司と呼ばれる地方官に任命することにより、各地域の諸民族統治が行われた。展示室にはこれら雲南土司に関わる、印章・文書・銀牌なども多数並べられている。また少数民族文字に関する希少な史料のほか、古い民族衣装・織物・染色や、銀・玉石・竹・牙角工芸などの展示もあった。
2階では、はじめに原人~旧石器・新石器時代の考古遺物を見学した。雲南は、陝西省の藍田人(約115~110万年前)、北京市の北京人(約50~25万年前)より古い、元謀人(約170万年前)の化石が見つかっており、人類史においても貴重な資料の宝庫となっている。とくに近年の開発に伴い、新石器時代の遺跡が多く見つかっているようで、永平新光遺跡(大理州永平県県城東、4000~3700年前)、石佛洞遺跡(耿馬県石佛洞)、大墩子遺跡(元謀県大墩子)から発掘された魚網・骨器・石器・陶器などのほか、木炭・竹炭や炭化米も展示されていた。
有史以後では、滇国時代の銅鼓・貯貝器や玉衣・馬具・画像磚が多く展示されていた。また農業関係では、中原の出土品にも時々みかける水田模型(呈貢大営出土。後漢時代)があった。非常に精巧にできていて、下写真の、向かって右が水田、左がため池になっているが、両者には流水口があり、ため池から水田に水が流れ込む構造が表現されている。ため池のほうには、鴨・蛙・魚・蓮なども造形されていて、一昨日元陽でみた風景のミニチュアをみているようであった。
13:45博物館見学終了。田さんと外で昼食をとり、14:30に博物館を出発してホテルに向かった。14:50市内の官南菜市場を調査。午後の遅い時間であったため、すでに閑散としていたが、一軒の店棚の前で、雲南に来てから一番長い白菜を見つけた。
15:15ホテルに戻ると、すでに鳥山先生・佐藤先生も雲南農業大学から戻られており、夕涼みついでにホテル近くの青果の露店市を散歩することにした。すでに多くの露店が野菜や果物を並べている。仏手柑や造形瓜などの珍しい品も見られ、色とりどりの野菜や果物が並ぶさまは、さながら青果の見本市のようであった。
17:15ホテルに戻り休憩。18:15ホテル敷地内の雲南料理店へ。雲南農業大学の李成雲先生と、雲南省農業科学院の和江明先生をお招きして夕食会。雲南省内の米の在来種のことや、白菜の発祥地が陝西省白水県蕓台郷といわれていることなどをうかがう。なお、陝西省白水県蕓台郷は、偶然にも田さんの故郷であった。21時半ホテルに戻り、解散。