東北大学大学院生命科学研究科 植物分子育種分野 渡辺研究室

現実、理(ことわり)、同志、秩序、保護、堕落、聖域、緩衝、完璧、始祖、逆転の発想(9/22)

2014年9月22日 (月)

 どこかで記したが、この4月で大学に入って30年目。というか、31年目がスタートした。30年前には、入学式もなく、オリエンテーションで、先輩たちから大学とはというか、単位はこうやってというようなことを習ったような。。。担任の先生というのがいて、びっくりした。大学になっても担任というのがと思ったら、今日会うのがたぶん、最後だからと。。。確かにそうであった。そんな不思議な現実を見た。というか、自分たちで何でもやるんだなと。。。そんな教養部でのオリエンテーションの翌日(たぶん。。)が、農学部のオリエンテーション。すでに学科が決まっていたので、農学科の教授の方々が1番教室の前に座って。。。挨拶を頂いたような。座長は誰がされていたのか、思い出さない。高校の時に「謎のコメが日本を狙う」と言う番組を見て、品種改良、育種をと思っていたので、植物育種学の日向先生が話された「統計学をしっかり学んでくるように」というのが、第壱の印象であった。今でこそ、平均、分散、検定と言うことで統計学の重要性は理解しているつもりであるが、その当時は。。。いずれ、統計学はちゃんと学んだような気がする。研究室に配属になる前から、何度も日向研には出入りしていた。自主ゼミの先輩がいらしたり、サークルの先輩がいたのもあったが、意外と日向先生と会うことはなかった。ただ、いらっしゃるときには、不思議と飲み会をしていて「また、飲みに来たのかね?」と言って頂いたような。。。飲むのが苦手な渡辺には、何ともいえないお言葉であった。それが第弐の思い出かも知れない。そんなこともあって、日向研への配属を目指していたこともあり、3年の夏休みには、イネの葯集めのアルバイトもした。月曜から土曜は朝から夕方まで、日曜が半日のアルバイトであったが、今なら、ハードと思えるバイトも、花粉集めの掃除機を開発したり、楽しい思い出であった。高校野球のラジオをつけて、圃場の小屋で仕事をしていた訳だが、音量が大きくて、先輩に怒られたことも。七夕の前には、大雨が降って、水田、小屋が水没したことも。。。そこまでしても、日向研への配属と言うことだったのだろう。学部の3年の最後になると、研究室配属になる。どの研究室か、全体で26名の同期のメンバーで悩んだ。ただ、なんとか、がんばって、日向研への配属というのがかなった。テーマ決めの時に、「組織培養」と「自家不和合性」で悩んだ。最終的に決める前の夜の風呂の中で、イネの葯集めのアルバイトをしたのだからという理由で「アブラナ科植物の自家不和合性」のテーマを選んだ。ただ、マウスを飼育して、抗体を作ると言うことで、悩んだが、気がついたら、理学部・生物の竹内研でモノクローナル抗体を作ることになって、日向先生の車で青葉山に行き、竹内先生に紹介され、動物細胞の培養を始めていた。最初にやろうとしたことと、違うなと思いつつ。でも、これも現実なのだろうと。。。これが、第参の思い出

DSCN3775.JPG 研究室に入ると、英語のゼミがあった。何をやればよいのか、そんなこともわからない。図書館の新館コーナーで、J. Immun. というのの中に、何かの花粉症のモノクローナル抗体を用いた解析のようなのがあった。今なら、J. Immun. が医学系の雑誌というのがわかっているが、その当時はわからず、ほかのideaもなかったので、読んだが、さっぱりわからず、はちゃめちゃな最初のゼミであったら、普通なら、日向先生から「はい、来週やり直し!!」と言う言葉が出るところが、それも出ずであった。未だに理由はわからないというか、聞いたら、やり直しと言われそうで、聞けないままだった。ゼミでも、研究でもそうであったが、物事の理(ことわり)というか、「君のlogicはね。。。おかしくないかい。。」と言うのをたくさん耳にした。論理的に考えることの大切さを伝えようとしてくれたと思う。これが第肆というか、ずっとかもしれないが、重たい言葉であった。そんな渡辺も大学院に進学することを決めたが、当時は、専門が3科目、英語、ドイツ語とあった。中でも語学は苦手であった。そのため、英語、ドイツ語を勉強していたためか、専門は、だめであった。堕落した夏休みを過ごしてしまったような。。院試が終わって、当時の園芸の助教授の尾形先生に「渡辺、どうしたんだ、できてなかったな。。。」と言われる一方で、農業経営・教授の酒井先生には「育種の割には、よくかけていたよ。」と言ってもらった。では、当の日向先生からは、面接の時に「物事を知っているかも知れないけど、論理的な文章でなかったね。。。」と言うようなイメージのことを言われて、院試はだめだったのかと思ったが、なんとか、残ることができた。抗体を作る実験で精製したS糖タンパク質(SLG)が必要になった。当時、共同研究をしていた東大・農学部の磯貝先生のところへ、凍結した柱頭を持ち込み、精製したSLGをもらってくるようにと。農学科で習う講義のほとんどが、農作物のどちらかというと生物学的側面。化学的面はあまりなかったこともあって。高校時代は化学が好きであったこともあって、楽しみであったが、訪問するときに、ちょっとしたことが、。。「精製したSLGがないと、抗体の力価がはかれないので、精製したSLGが必要と、山の上で言われたのですが。。。」と。。。「だったら、東大の磯貝先生のところへ行って、もらってくるしかないね。電話で連絡してあげるから。」と、日向先生が言われて、当時は、直通の電話でなく、交換手がいた電話だったので、教授室の電話から「・・ということで、渡辺君にいってもらうので、よろしく。。」と言うようなやりとりだったような。で、そのあとであった。「渡辺君、東大、わかる、行ったことある??」、「はい、農学部は正門からなら入ったことあります。」と。「だったら、入ってすぐ左の建物が農芸化学の2号館なので、そこの3階(??)のこのあたりが、磯貝先生の部屋なので。行く前の日に、ドライアイスを購入しておいて、冷凍庫の柱頭を入れたお弁当箱を持って行って、かえりに、SLGをもらってくる」ようにと。東京には高校時代の友達もいたので、何度も行ってはいたものの。。。「で、日向先生も一緒に行かれるのですよね??」といったら、「東大までの場所がわかっていたら、2号館の建物と、地下鉄の乗り換えをおしえたら、1人で行けるよね。」と、笑って言われた。学生の自主性というか、過保護にしないで、責任を持ってやらせると言うことが第伍に教わったことだろう。実際、地下鉄にラッシュの時間に乗ると、とても大変で、また、磯貝先生の部屋の重たい扉を開けて、「東北大の日向教授の所から来た、渡辺と申します。磯貝先生はこちらでしょうか??」といったら、奥の方から「はい、磯貝です。どうぞ。」と言って頂いたような。当時、精製を担当されたいた、院生の塩澤さんに「12mM(??)のリン酸緩衝液くらいだと思いますね。この液クロのチャートから見たら。。。」といわれて、そうなんだというか、なぜそうなるのか、わからないまま、もらって帰ったような。。。抗体を使った実験で、SLGに類似した構造を持つものを葯の中に発見した。今にして思えば、おかしな実験をしている訳であるが。。。実験をしていた1980年の終わり頃は、それでよいと思っていた。1遺伝子座の上には、1つの遺伝子しかないという発想であったので。どうやって、違うものをそれぞれ雌雄で作り出すのか、そんな理屈を考えることもなく、まず、ひたすらやってみたら、偶然、見つかった。もちろん、未だに、それが何なのかは、不明であるが。。。その実験の再現性であったり、近縁植物での多様性であったり、今にして思えば、そうしたことをすると自分でも思うが、当時はそんなことも思わず、ひたすら実験をしては、週末の土曜日の午前中に、その週の実験内容を日向先生と議論していた。ただ、日向先生もタンパク質のdeepな面まではfollowできないので、「これだったら、東大の磯貝先生のところへ行って、議論してくるかね。。。」といって、数ヶ月に1回くらいだろうか、実験の相談に伺った。もちろん、渡辺1人で。。。今なら、プレゼン資料は、Power Pointのppt fileであろうが、当時は、電気泳動、抗体で見つけたタンパク質のバンドなどを白黒写真で撮影・現像して、ケント紙にはり付けて資料作りという、原始的なものであった。結構、大変であった。それを作っては、議論してきた。それが、日向先生がよく言われていた「餅は餅屋」という専門性を大事にて、それが一番よくわかる共同研究をしている方々というか、同志に話を聞いてきなさいということだったと思う。第陸の教えとでも言えばよいのだろう。

DSCN3781.JPG 科研費の研究集会にも早くから連れて行って頂いた。筑波大の原田先生が領域代表をされたときの発足会議から、4つあった班のうちの生殖を担当された日向班の発表会にも。最初の会議は秋田市内であった。M2の秋から冬にかけてであったような。その秋の育種学会で先の偶然見つけた葯タンパク質の話をして、それと同じことであったが、偉い先生方の前で、渡辺もしゃべることを仰せつかった。他の大学の先生方の所も同じように院生がしゃべるのだろうと思っていたら、渡辺だけであった。。。それを知って、かなりびっくりすると同時に、渡辺で大丈夫なのだろうかと思った。もちろん、前日までかなり練習をした。原稿なしでしゃべれるようにはなったものの、質疑に耐えることができるのか。とても心配であった。それを日向先生に伺ったら、わかることをこたえればよいのだと。若いうちからプレッシャーのかかる中でしゃべることの大切さをおしえてくれたのが、第漆の教えである。その関係だろう、自分も学生さんたちになるべく若い時代から、いろいろな人の前でしゃべるようにしてもらう。実験がある程度まとまれば、論文を書くようになる。ところが、英語が苦手な渡辺には一筋縄ではいかない。いろいろな論文を読んで、こんな場合は、こんな表現をするのだというのを学びながら、論文を書いたが、跡形もなく、日向先生に直された。まるで、4塩基認識の制限酵素でゲノムを切ってしまったように。。。ただ、直された英語を書いてみて、また、論理的に考察を構築することを理解できた3つ目当たりの論文からくらいだろうか。少しまともになってきた。「論文はね、。。まず、実験をしながら、材料と方法、結果を書くんだよ。それができたところで、自分の結果は、自立できないでしょ。他の周りのこれまでのdata、結果とすりあわせて、周りから添え木をするから、立てる訳だよ。そうして、考察ができるんだよ。そうしたら、その結果、考察がきれいにかっこよく、論理だって見えるように、イントロをつける訳。最後に、どんなタイトルをつければ、多くの人が見てくれるか、そう考えれば、論文ができる訳さね。。。」と、教えていただいたが、実際は簡単ではない。ただ、それでも自家不和合性だけでなくて、いろいろな分野の論文を書くことができた。もちろん、この教えに従って。。。それから、大事なこととして「◎△と論文は、他の人に見てもらうほど、きれいになる」と。◎△については、想像をして頂ければ、幸いである。たくさんのプロと共同研究をしている訳なので、異分野の方々に読んでもらってから投稿できた。これが第捌の教えとなった。アブラナゲノムというか、植物育種・遺伝学の講義には、1920~30年代くらいのゲノム解析というのがある。異種植物間での染色体の対合パターンから、同祖性の染色体を探し、それぞれの植物のゲノムの関係を理解するものであった。アブラナゲノムで有名なのが、U's triangle(禹の三角形)。この禹博士の博士論文の由来も。最初は、アサガオの研究で実験をして、博士論文をと思っていたのが、提出前夜の出火で全てが消失。その時に、サポートしたのが、日向先生が自家不和合性の研究をするきっかけとなった水島先生だと。作物育種学講座の始祖ともいえる初代教授であり、渡辺が今いる研究所のoriginである、附属農学研究所の助教授であった方。この水島先生と後に九大・農学部の育種学の教授となる永松先生が禹の三角形の実験を支援したと。。。禹博士のことがあったからこそ、水島先生がアブラナ科植物のゲノム解析をされ、そのつながりで、自家不和合性の研究を始めた日向先生。そうした禹博士のようなことが起きないような注意力と一方で、そうしたことがあったか、自家不和合性研究をしているという不思議をおしえてくれたのが第玖の教えとなろう。

DSCN3786.JPG 書くことを続ければ、まだまだ書き足らない。と言うか、思い出されることはもっとたくさんあると思う。そんな研究をする上で、日々、生活をする上での大切さをおしえてくれた日向先生が2014年9月13日(土), 14:30になくなられた。ちょうど、科学者の卵養成講座を工学部で運営していた頃であった。いつだったか、こうしたアウトリーチ活動を評価してくれたことがあった。だから、そんなことをしているのをよしとして、こちらは高校生への教育をすることができたのであろうと思うと、感謝と涙が浮かぶ。ただ、最終講義のあとにも、こちらが仕事というか、研究をし続けることをよしとして、定年のイベントにかかわらず、実験するようにと、そんな親心というか、それが今回のと言うか、最後の配慮であり、第拾の教えだったのだろう。これらの壱から拾の教えを大事にし、完璧に遂行し、これまでの秩序、聖域と言われたものの中に、逆転の発想で、新規なものを見いだしていくことが、弟子としてのつとめであろう。。。とおもった、2014年、秋のお彼岸であった。。。

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 わたなべしるす



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