東北大学大学院生命科学研究科 植物分子育種分野 渡辺研究室

選抜、立ち上がり、若手(1/24)

2015年1月24日 (土)

 「春は選抜から」というと。。。植物の遺伝・育種であれば、実験に使う「アブラナ」のどの系統を残すと言うことかもしれない。さすがに、まだ、ガラス室では苗の状態で、自然の温度というか、低温で春化処理がされている。学生の頃よりも、ずいぶんと秋の暑い時期が長いので、秋の作付けがどうも難しくなり、その分、春の作付けが後ろにずれ込んでいるように感じる。どう作付けするのが「アブラナ」にとってよいのか、その当たりは、もう一度考え直してみるのが重要な気がする。渡辺が学生の頃は、秋の花が終わりそうなガラス室の脇のスペースで、11月上中旬には播種をして、12月の上旬には植木鉢に植え替えていたような。。ただ、年々忙しくなり、3月に植え替えという時期もあった。学部生、院生として実験を始めた頃は、農家のおじさんと同じレベルで栽培しようと、いろいろ工夫をしていた。農家のおじさんたちは、どうやったら、カブとか、ハクサイがより大きく収穫できるか。それに対して、こちらは花の数を多く、長きにわたってサンプリングできるか。わかったことは、冬のシーズンにどれだけ葉っぱの枚数を多くして、その葉っぱの色を濃くしておくか。栽培を学生さんに任せてしまったのはいつ頃か覚えてないが、緑の葉っぱと言うより、濃い緑、黒に近いような葉っぱにしておいた。もちろん、そうなると、病虫害への対策が大変になるという問題も裏腹にあった。特に、鱗翅目のコナガ、アオムシ、ヨトウガには、ずいぶんと痛い目に遭った。コナガはほんと困った。当時の害虫研の松田先生にコナガの防除を聞いたら、「講義でも言ったように、幼虫でなくて、成虫を物理的に防除する方が。。。。」。なるほどと思った。元を絶つ方が、現状ももちろんそうだが、次の世代を生じさせない。小学生のように虫取り網で、ずいぶん追っかけた。そんな風に次を生じさせないという選抜というか、駆除も大事だと。で、最初の「春は選抜から」は、普通なら。甲子園。春の甲子園。。。。高校時代の。。。82年ぶりに選抜され、旧制中学時代の松山中学が。53年ぶりの和歌山中学も。3月まで、しっかりアブラナを育てて、甲子園の試合をラジオで聞きながら、交配実験はできないかも知れないが、花が咲きそうだなと言うくらいにはしたいなと。。。

DSCN5548.JPG 甲子園での高校野球だけでなく、立ち上がり、物事の立ち上げにはかなり大変である。野球で言えば、最初に投げる投球がストライクなのか、ボールなのか。きわどいコースで、どちらかになるかというのは、そのあとの投手への影響は大きい。2球続けて、ボールになると、投手へのプレッシャーかなりのものになる。実験でも同じで。最初にうまくいけば、ある種の流れができる。逆にうまくいかないと、プレッシャーになる。ただ、最初にうまくいくと、いい気になって、できるとぬか喜びをしてはいけない。後で痛い目に遭うこともある。その意味で、立ち上がりがよくても、そのあと、いかに注意深くやるかと言うことももちろん大事である。物事の立ち上げと言うことでは、学生、助手になった頃、研究室で核酸を扱う実験をすることを始めた。plasmid DNAをとることにはさほど困らなかったが、きれいなplasmid DNAでなければ、満足な塩基配列決定ができないことでは、ずいぶん悩まされた。当時の遺伝子実験施設の中河原先生に、分子生物学というか、満足に塩基配列決定ができない理由、制限酵素で切れない理由、plasmid DNAにcloningできない理由など、たくさんの基本的なことを教えていただき、それなりのことができるようになるのに、結構(というより、かなり。。)時間がかかった。ただ、一度システムができあがれば、後は、限りなく失敗をしないようにすることであった。もちろん、うまくいく頃に、manualでのplasmid DNAの単離でなくて、kitが販売されるようになったのも寄与していると思う。ただ、立ち上げの苦労があったから、すんなりkitになじめたのかも知れない。いずれ、立ち上げの苦労は「買ってでもするもの」と言う気はするが、売ってないのが、難点である。ただ、よく考えれば、売ってないかも知れないが、意外といろいろなところに、落ちているのではないだろうかと思う。それを拾って、やってみれば、以外とおもしろいものが拾えるのではないかと思った。もちろん、すごい虫を拾ったと思ったら、「シバンムシ(死番虫)」だったらしく、松田先生に「渡辺君はすごいものを拾ってくるね、。。。」とあきれられた。そんなことがあることも考えないと。。。

DSCN5572.JPG 実験、研究で困ったら、いろんな所に行った。師匠の日向先生の「餅は餅屋」を実践したと言うことかもしれない。先の遺伝子実験施設にはじまり、タンパク質を蛍光標識したら、おもしろい実験ができるのではと、当時の食品分析の目黒先生のところへ伺ったり。もちろん、そんな風にあちこちに伺うような習慣がついたのも、4年生の時から、理学部・動物発生の竹内先生のところで培養・抗体作成の実験を習い、タンパク質の精製では、東大の磯貝先生のところに行っていたから、どこへ行くのもそれほど敷居が低かったのかも知れない。それに加えて、M2の秋からだったと思うが、当時の重点領域研究(筑波大の原田先生が代表をされていたので、原田重点と呼んでいたような。。)の各班の発表会、若手に発表の機会をと言うので、若手の会でしゃべることをさせてもらったのか、させられたのか。。。いずれ、いろいろな大学の同年代の方々と知り合いになり、また、農学部、理学部など、学部を超えての交流ができた。今となっては、大事な財産となっている。そう考えたとき、若手の頃、いつまでを若手というのかも知れないが、そうした機会に参加して、交流をしておくことが、思わぬ実験に発展したり、するものである。何より、夜遅くまで延々と議論をして、というのは、実験・研究に大きな幅を持たせることになった。唯一という言い方をすると、工学系の方との出会いが少なく、最近やっと。。。それでも農工連携のようなことも立ち上げ始めつつある。さらに、幅を広げれば。。。「春の選抜」が始まるまでに、あれこれと用意したら、きっと、若手はがんばってくれるのではないだろうか。ふと、そんなことを考えながら、とある発表会に参加して、思ったのでした。。。


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 わたなべしるす

 PS. 選抜には、渡辺の母校も。。。。最後まで気合いと根性でだと思いました。。。
 

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