東北大学大学院生命科学研究科 植物分子育種分野 渡辺研究室

研究室ダイアリー

風評被害のアブラナ科作物は、バイオエネルギーにというのは。。(3/22)

2011年3月22日 (火)

 福島原発の関係で、農作物が畑にすき混まれているのを見て、農学を学んだものとして、涙が出る。あそこまで作ることにどれだけのエネルギーがかかったのか。大変だったと思う。では、使い様が全くないのか。アブラナ科作物であれば、最後には花が咲いて、種ができる。その種をしぼると、油になる、いわゆるなたね油である。これは、バイオディーゼルである。こんな使い方はできないのだろうか。そうでなくてもエネルギーがないといっているのに。そうすれば、多少は、今の状況は回避される。

 また、他の作物も、糖に変換できれば、バイオエタノールになる。柔らかい分、使いやすいのではないだろうか。世の中が、パニックの状態なので、こんなことを考えても実現は難しいのかもしれないが、こんな時にこそ、こうしたことを考えるようにすれば、作物が太陽エネルギーを変換したものを効率的に利用できないのだろうか。

 そんなことをふと思った次第である。もしかしたら、豊作で出荷調整が起きたときに、同じようなすき込みがあったときにも思いついたのかもしれないが、そのときに書いておけばと。まさに、備えあれば。。。である。


 わたなべしるす

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マルチタスク、今できること、社会貢献。。。。(3/21)

2011年3月21日 (月)

 地震の後のことを記していましたが、どうも、思い出せない、あるいは、おいたものをどこに置いたか、すぐにパニックになる、という状況です。もちろん、いつもと違うものの配置であること、同じ研究室でも、まだ片付いてないことなど、いろいろあると思いますが、今まで、いろいろな仕事を動じ並行的にやる、つまり、パソコンのマルチタスクのようなことができていたのが、あの地震の時のショックで、マルチタスク機能が欠落したようです。そのため、仕事が滞りがちですが、研究室を片付けるということと、毎日の生活をするための食糧確保など、考えることは多いですが、今日はこれと言うようにやってみることしかないのかもしれません。そうしているうち、1つが、2つに、というように増えるのだろうと。

 つまり、今できることをまずは、やってみようとすることしかないと思います。その点で、共同研究を行っているみなさまには、ご迷惑をおかけすると思いますが、お許し下さい。研究室の復旧に併せて、できるだけのことをしたいと思います。まず、今できることを、やるしかないのだと思います。

 そんなできることをやるという意味で、東北大理学部の物理系の先生が発信されている、「仙台市青葉区の放射線量」というHPを見つけました。渡辺自身も、昔、radio isotope(RI: 放射性同位元素)を使ったことがあり、ガイガーカウンターがなる中での実験が、どうも苦手です。そんなこともあり、今の空気中が見えない放射能でどの程度、汚染されているのか、プロの方が計ってくれるのは、うれしい限りです。また、研究科のserverのお世話を頂いている方の旧友という方が、地震で水没したHDの復旧のお手伝いをお願いされ、serverでお世話になっていることもあり、この様な環境下ですが、お手伝いをさせてもらっています。今までの出前講義のような社会貢献とは違うかもしれないですが、水没したHDがもどれば、消えてしまうかもdataが元に戻るかもしれないという点では、大きいと思います。このことを書いているときに、HPにも記している、旧農学研究所の水島先生が、農水省の研究所に勤めているときの室長の禹博士のことを思い出しました。博士論文を書いてあったのに、提出前日に火災で全部消失したことを。戦前の話ですから、もちろん、実験のやり直しだったわけです。そのようなつながりのあるdataの重要性をここで、お役に立てるのは、うれしい限りです。

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 わたなべしるす


 PS. 科学者の卵を一緒に運営している、久利先生からも、mailをいただき、HPでいくつかのことを記されていると。ご覧いただければ、幸いです。

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3/11(金)、14:46から今日まで、その3(3/20)。

2011年3月20日 (日)

 3/12(土)、朝の出勤時間も忘れました。さほど、寒くなかったような。地震の被害がテレビで報告され、被害の大きさがどれほどのものか、わかってきました。あり得ない大きさであることがわかってきて、現実が何なのか、わからない、そんな朝だったような気がします。

 その日あたりか、前日の夜あたりから、仙台で翌週の土曜日、3/19-21で開催される、植物生理学会がどうなるかということの対応に追われていました。今考えれば、仙台空港は、この秋頃まで復興ができない、東北新幹線の那須塩原-盛岡間の復旧にはめどが立っていません。今日現在。もちろん、町の中での食事もほとんど不可能です。明らかに開催は不可能でした。でも、そんなことも状況がわからず、対応に追われていたのを思い出します。この電話で、携帯の電池がなくなり、研究室のノートパソコンの電池から、携帯に充電をしていました。あの充電がなければ、本当に、どこにも連絡ができない、陸の孤島になるところでした。ノートパソコンに電池を置いてくれていた学生さんたちに感謝です。

 それから、3/10-11にかけて、4月からPDとして、研究室に来て頂く方(お名前はまた、後日に。。)が、いらしていました。10日お会いして、先の学会のことなどに対応していて、PDの方がどうなったのかなど、頭から抜けていました。朝、現在のlabの方から、近くの小学校に被災していることを伺い、急ぎ、迎えに行ったのを思い出します。もちろん、きてもらったからといって、何か特別なものが、研究室にあるわけでもないわけですが。。。遠くから来てもらい、一晩ではあったかもしれないですが、つらい思いをさせたことは申し訳なく思っております。遠く離れた場所での被災、考えただけでも。。。

 この日あたりから、津波被害のテレビが流れるとともに、福島原発のことも注視されるようになり、「メルトダウン」というのが、あたまをよぎったのを思い出します。電気はいつ来るのか、水はいつ来るのか、大学の中での炊き出しのようなことは、いつ終わるのか。トンネルの中からいつ抜け出すのか。

 そういえば、炊き出しでは、いくつかの研究室の方々にお世話になりました。おいしいカレーも頂いたような気がします。ありがとうございました。人捜しで空腹も忘れていたような状態でしたので。そんな炊き出しを必死でやっていた方々を踏みにじるようなことがあったのも事実でした。あの状態で必死で生きることを考えている学生さんたちに対して、きわめて失礼極まりないと。。。。というより、情けなかったです。。。。

 午後からは、町中で携帯などの充電ができるというので、パソコンの充電をして、Internet上にある情報をとるようになりました。もちろん、大学のweb, mail serverは落ちているので、別の通信手段を使いました。それのおかげで、テレビ以外の情報もわかるようになりました。

 その日の夜の寒さは厳しく、ガラス室の暖房用にあったストーブを持ち込み、暖をとりました。それがあることに気がついてくれたスタッフの方、感謝の限りです。その日の帰りも、23:00すぎだったような。。

 3/13(日)、さすがに疲れ果てていて、昼過ぎにlabに電気が来たという連絡をもらいました。一方で、日本植物生理学会の仙台年会を中止にするということを、会頭に連絡することが、ポイントになってきました。あわせて、地震当日の15:00すぎに、4月から、東北大・農学部に入学が決まっている高校生と面接することを思い出し、無事にその高校生は帰ったのか、。。日中は研究室の少し歩く場所が確保できる程度に、片付けを始めました。多くの院生の方に手伝ってもらいました。ありがとうございました。疲れていたと思います。にもかかわらず。。。研究室はめちゃくちゃといいましたが、実験台は、天井のコンクリートに固定していたにもかかわらず、振り回され、元の場所とは、違う場所に。丸2日と待った冷凍庫のサンプル、低温室もぐちゃぐちゃ。蛍光顕微鏡、in situ hybridizationの機械など、多くのものが落下していました。ガラスもたくさん割れていました。とても片付ける意欲がわくようなものではありません。。。。

 夕方には寒くなり、早めに戻ってもらったような気がします。そのあたりから、電気、水道が自宅に来はじめたような気がします。ガスはプロパンガスは、使えたようですが、都市ガスは、もちろん停止。今でも復旧のめどが立たないそうです。

 その日の片付けのあと、思い出した、高校生の自宅を探しに、。真っ暗な中で、数人のヒトに助けてもらい、避難所などを訪ねて、自宅に無事、当時仕えられたことを伺い、涙が止まりませんでした。ずいぶん遠いところだったので。つらい思いをして、大変なところに戻ったのだと。心配をさせてしまったと。4月から、大学生ですが、いつ大学が始めることができるかわかりませんが、研究室の復旧後には、ぜひ、また、お手伝いのアルバイトに来てもらえれば、幸いです。

 今日はこのあたりにします。


 わたなべしるす

 PS. 今日は、スタッフの方のところが、all電化というお宅ということで、お湯を頂きました。ありがとうございました。それから、亡くなられた方々に追悼の意を込めて、頭を丸めました。亡くなられた方々に黙祷したいと思います。(黙祷)

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3/11(金)、14:46から今日まで、その2(3/18)。

2011年3月19日 (土)

 昨日の続きを少し記してみます。研究室に残った者は、labの中を視察にいきました。もちろん、単独では危険ということから、スタッフが同行し、改めて、部屋の中を確認しました。居室の入り口には、プリンターが落下しており、本棚の本という本がすべて落下し、本棚が空っぽ状態でした。まさに足の踏み場がない状態です。

 実験室の方は、同じように足の踏み場もなく、様々は備品が落下、一番奥の部屋では、蛍光顕微鏡、遺伝子発現装置が墜落しており、シロイヌナズナを飼育している棚も、激しく倒れていました。渡辺の部屋は、建物の端っこにあります。今回の地震が、東西、南北方向に揺れたようで、1Fより、2F。2Fより3Fが被害がひどいのが、何とも言えない状況でした。渡辺の研究室が、3Fにあったことから、生命科学研究科・本館でも1, 2を争う被害となりました。ただ、聞いた話ですが、青葉山の工学部では立ち入り禁止の建物も多いというような話も聞いております。それから比べれば、ましなのかもしれません。

 こうした呆然とした状態の中で、世の中で何が起きているかを知るためにも、まず、各自の自宅の状況を確認してもらうということが、次のステップでした。火事場泥棒ではないですが、研究室の鍵を閉め、順番を忘れましたが、院生の方々には、自宅の確認にいってもらいました。そういえば、地震の直後に、30minあまりでしょうか。吹雪になり、泣きっ面に何とかという感じでした。

 渡辺も自宅に戻ると、本棚を置いている部屋は、研究室と同じで、一面、ガラスが割れている、同じ状況でした。その中で、普段は、湯船につかって使っている、ワンセグのテレビを見つけて、乾電池で動くことから、それを大学に持ち帰り、大きな津波が起きたことを知り、大きなショックを受け、被害の小さい研究科のプロジェクト棟に、「(仮称)生命科学研究科・本館・災害復旧本部」をつくり、食糧、懐中電灯、電池、水などを、集めてきました。このときに、機転を利かせてくれ、食糧を集めに行ってくれたスタッフ、院生の方々に感謝します。また、食事をするための炊飯のために、燃料になりそうな木々を集めて、夕飯になりました。その夕飯も、どこまで食べたのかも記憶がありません。寒さも厳しくなりつつ、テレビを見ていたら、津波の被害に加えて、福島原発のことが、話題に上り始めたような気がします。このあたりの記憶が、定かでありません。

 その日は、23時頃まで、大学で学生さんたちと現状を見ていたあと、自転車で帰宅しましたが、信号機も止まり、真っ暗な中を自転車で帰ったのは、高校生まで生活していた今治の田舎道以来でした。この日は疲れ果て、そのまま家で寝ました。もちろん、風呂、トイレ、電気すべて使えなく、そんな状況でした。また、頭を整理しないと、頭がパンクです。。。続きは、また、後ほど。。

 昨日、今日にかけて、こんな中で起きた奇跡のようなことは、また後ほど記します。


 わたなべしるす。


 PS. 大学のmail serverの復旧は、担当の方が迅速な対応をして頂き、以外と早く戻るかもしれません。そのときは、また、お知らせします。ダイコンコンソーシアムのHPに、小松高校の寺岸先生がコメントをしてくれていました。ありがとうございました。今日も同じ、終わり方かもしれないですが、福島原発での一連のことが、何とか収束の方向になることを祈りつつ。。 

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3/11(金)、14:46から今日まで、その1(3/17)。

2011年3月17日 (木)

 まず、この大震災でなくなられた多くのみなさまに哀悼の意を表します(黙祷)。さらに、被災をされているみなさまによりよい環境になることを祈っております。また、渡辺の研究室に多くの心配のmail、電話を頂いた方々に感謝します。今日、研究室のweb serverのみ回復したことから、哀悼の意を表しつつも、研究室に電話を頂いたり、mailを頂いた方に、こちらの状況を説明することも、1つの任務であろうということで、今日1日ですべてを記載することはできませんが、日を追って、記載できればと思いますし、その間にご協力頂いたみなさまに、感謝の意を表したいと思います。

 さて、3/11(金)、14:46の東北関東大震災で、何が起きたのか。当日、研究室では通常のことが行われており、翌日の科学者の卵の発表会での準備、翌週から開催される日本植物生理学会の準備、年度末の様々なことが行われており、学生、院生の方々は実験をしておりました。自信に敏感な渡辺は、初期微動で「地震」といって、立ち上がり、本震の第1弾では、何か落下があったとは思えない、いつもの地震でした(研究科にある館内放送を通しての、「緊急地震速報」は何故か、ながれませんでした。。。)。これで終わると思っていました。ところが、そのあとの第2弾で、本棚の本という本が落ちました。続く、第3弾で、すべてが。机の下に避難したり、呆然としたり。本震が収まったあと、点呼をしつつ、外に出て、部屋の中に誰も残っていないことを確認して。その後も余震が続き、非常勤の方、アルバイトの方には、戻って頂きました。あとでテレビなどを見て、ずいぶん遠くまで歩かれたのではと、。。申し訳ありませんでした。あの時に、考えついたのは、それが限界でした。残った方々のその後については、改めて、後日記します。頭の整理ができません。

 当日研究室にいなかった方を含めて、研究室のメンバーの安否はすべて確認でき、無事でした。これだけは何よりでした。

 そのあと、いろいろなことがありましたが、多くの方から、通じない電話の中、安否確認などを頂いたこと、感謝に堪えません。ありがとうございました。SSHのダイコンコンソーシアムに、渡辺の安否を記して頂きましたこと、ありがとうございました。

 それから、研究室の皆さんのほとんどは、大学での通達に従い、自宅・実家待避をしてもらっています。無事に、ついたというmailも頂いております。大きな地震で傷ついた心を直して、また、会えることを期待しています。

 まず、web serverが直ったということで。。


 わたなべしるす。


 PS. 大学のmail serverの復旧には、まだ、7-10日かかりそうです。つながり次第、また、連絡します。何より、福島原発のことを気にしつつ。。

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