東北大学大学院生命科学研究科 植物分子育種分野 渡辺研究室

研究室ダイアリー

とっさの決断、食糧不足、戦略作物。。(3/28)

2011年3月28日 (月)

 地震があったときに、とっさの決断がどれだけ大事かというのは、様々なことを見ていて、ご理解頂けるのではないだろうか。実際に今回の地震でも、3回の搖れの重なりであったが、決断できた方は、きちんと机の下に隠れることができている。渡辺は普段から、何かあったら、机の下にと言っていたのに、そんなことはできず、呆然とものが落ちるのを見ていることしかできなかった。そんなとっさの決断の重要性について、昨日のテレビ、今日の農学部のでの会議の席で話を聞くことができた。地震から津波が来るまでに、数分から、数十分しかない。その間に、津波が来る海に船が流されないようにするために、津波に向かって、船を出したというのである。まさにとっさの判断であり、決断である。それも船を波に対して直角にしないと、船は流され、かえって危険である。その大波を乗り越えて、農学部の水産実験施設の船は無事だったらしい。建物は、もちろん動けないので、津波の被害をもろに受けたらしい。この様なとっさの行動は、歴史を見てもその行動が評価されることが多い。呆然としないで、とっさの決断ができるようにならないとと痛感した。

 農学部での会議の行き帰りに、仙台の町中を通った。ガソリンもつきて、自転車で。町の中には、いくらかの活気がもどりつつあるが、やっぱり食糧不足というのは否めない。冷静に考えると、救援物資で頂いた、卵をこの2週間ほどで、6つほど食した程度で有る。乳製品となると、今日、初めて、コンビニで見つけて飲むことができた。まだ、仙台の町は、この様な状況である。もちろん、津波の災害があったところから比べれば、ずいぶんとまともな食事なので、その点は、感謝しなければならない。

DSCN2757.JPG このお米と少しの野菜しかないような状況を考えたとき、戦後の食糧難のようなことを思い出し、また、今の日本の食糧自給率だけということを仮定した食事例が、農水省のHPにある。そこには、朝晩は白ご飯。昼は焼き芋。リンゴ少し。夜にはサカナの切り身。卵は1週間に1つ。牛乳も同じくらい。肉も。。。この様なことがもし起こったら、大変なので、ぜひ、日本の作物の増産を行い、食糧だけでなく、エネルギー、食の安全なども考えるプログラムを提案した。まさに、食糧を戦略的に考えるというテーマであった。残念ながら、その教育プログラムは、不採択になったが、この様な形でその重要性を思い知らされるとは思わなかった。そのスライドを見て、審査員からは、失笑が漏れたが、誰もそんなことが起きるとは思わなかったのだろうが、現状は限りなくそれに近いものである。

 今の東北地方はまさに、戦後すぐの状態なのかもしれない。この試練をどう乗り越え、安心、安全の食糧供給を考えるかは、これからのわれわれに残された大きな問題であろう。


 わたなべしるす

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3/11(金)、14:46から今日まで、その5(3/26)。

2011年3月26日 (土)

 17日(木)には、web serverが復帰しました。それに伴い、学内のLANが学外とつながりました。通じた最初の頃は、不思議なことがいくつかありました。ハブを使って、何段かに分岐させていて使っていましたが、それらのハブが使えなくなりました。今週になって、その一部は使えましたが、その理由はよくわかりません。やっぱり、電気の世界は、よくわかりません。さらに不思議だったのは、この日だけだったのか、夕方には回復したのか、学外からはlabのHPを見ることができるのに、学内からは見えない。研究室のパソコンからは、自分のlabのHPが見えないという不思議なことが起きました。

 この週のうちには、自分の本棚をある程度元通りに復活させ、並べ直してみながら、やる気を探ろうとしていたのかもしれません。年度末の報告書の書類などがありましたが、そのままでした。

 18日(金)の14:46はちょうど1週間でした。テレビではなくなられた方に対して「黙祷」という場面があり、それにあわせて、黙祷しました(黙祷)。

DSCN4634.JPG 19日(土)~22日(火)は、本当であれば、東北大の川内キャンパスで、日本植物生理学会のはずでした。この数日間に仙台に残っていた研究室関係者の2名が実家に避難し、仙台が実家であるものを除いて、避難が完了したのでした。19日には、mail serverが夕方に復帰しました。迅速な復帰に努めてくれた、server管理の方に感謝します。ありがとうございました。mailerをあけてみると、100通を超えるような安否確認のようなmailを頂きました。国内外から。ありがとうございました。

 雨とともに、放射能汚染された雨が降るのではと、かなりびびった生活をしていたのを覚えています。そんなときに見つけた、理学部・物理系の先生のHPには少し心救われたものがありました。何より正確な情報に基づいて行動することが、サイエンス同様に大事であることを実感しました。

 22日(火)からは、復興に向けたという点かもしれないですが、研究室で使えなくなった備品類の調査が入りました。急ぎの調査ということで、周りの方にお手伝い頂きながら、まとめることができました。また、温室の止まっていた水道も復帰し、水をほしがっていたBrassicaの仲間に水をあげることができました。また、非難されている皆さんと連絡でき、帰省先で安全に生活しているということ、また、研究室のこと、実験のことを気にして頂いていることに、感謝でした。皆さんが戻ってきて頂けるようにまた、環境を整えたいと思います。また、復旧にお手伝いいただければと思います。

DSCN4076.JPGのサムネール画像 23日(水)~24日(木)には、高田くん大坂くんがlabの方に来てくれ、植物を植えていたポットがこぼれて土まみれになった研究室が、割れたガラスが取り除かれ、ずいぶん、きれいになりましたが、実験台は地震で大きく降られて、天井のコンクリートに打ち込んである太さ1cmくらいの鉄の棒が、天井に大きな穴を開けていました。それに伴い、実験台は、左右に振られて傾いていました。渡辺の方が年度末の書類などに追われていた中でしたので、心強い限りでした。高田くん、大坂くん、ありがとうございました。

 25日(金)頃になると、疲れがピークになり、作業効率が落ちるだけでなく、どうも何をやろうとしているのかなど、ふと気がつくと、ボーとしていることが多くなりました。土日は少し休んで、来週に備えたいと。この週あたりからは町中に出ると、ガソリンスタンドに長蛇の列ができ、一方で、開いている店、食堂も少しずつ増えてきました。ちょうど2週間です。ただ、交通量は少なく、早めに消灯するところが多いのも事実でした。

 25日(金)あたりから、公共交通機関、ガスの復帰のめどの話が流れ始めました。普通となっている東北新幹線、那須塩原と盛岡間も1ヶ月くらいだと。ガスも1-1.5ヶ月くらいだと。地下鉄は、5月の終わりには。少しずつ、何とかなりそうという気がしますが、このあたりになっても安定しないのは、福島原発。仙台での放射線量は、通常の3倍くらいですが、今まで閉鎖系で使っていた放射性同位元素が、外の解放系に存在するという違和感には、未だになれない状態です。どうしてもガイガーカウンターの音が、頭の中で鳴ります。。。。

 そうです。この週の前半には、西日本の方々から、とある方法で、援助物資を頂きました。とある方法はここでは、企業秘密ということでお許しください。昔は「逓信」と呼ばれていた公的機関だったところのものを使えばよいということくらいで。。。送って頂いた方に、感謝します。ありがとうございました。おかげまで、毎日の食生活が支えられています。

 夕方には、出前講義などでお世話になっている宮城第一高校の小松原先生が訪問され、研究室の惨状を見て頂いたり、次年度に向けた打合せなどもできました。同じタイミングで、SSHで講義などを小なっている福島高校の橋爪先生からも電話頂きました。福島市内の放射能汚染が高いのが気になっていましたが、物理の先生が計算してくれたらしく、少しずつ減衰しているので、大丈夫と。それでも気になるような高い値だと。くれぐれもご自愛ください。


 わたなべしるす


 PS. 実験、研究を含めて、すべてのことには、あらかじめそれに気がつくような事象、警告があるものだと思います。それに気がついて対応するのか、それを無視して、それが結果として大きな問題につながるということがあるということを思い知らされたような気がします。「想像を超える」という言葉では片付けられないという気がします。サイエンスの発展の時にも想像を超えるということは、当たり前のような気がしますので。そんなときに、昔見た、歴史番組で、「万が一の時になって、思いをめぐらすのではなく、常日頃から非常の事態に備え、一生懸命にわが身を生かす心構えを養うべきである。」という言葉があったのを思い出しました。いつ頃の誰の言葉かわかりませんが、今回、思い知らされたような気がします。
 
 それぞれの本質が起きる前に起きる予兆的なことに気がつくことができれば、研究ももう少しよくなるような。というか、それが、経験と勘というものなのかも知れません。こうしたら、こうなるというような勘が働くことがあります。あるいは先のような歴史が物語ることもあります。それらを大切にして、これからに活かすのが、サイエンスをやる上でも、人生でも大事なのだろう。

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3/11(金)、14:46から今日まで、その4(3/23)。

2011年3月23日 (水)

 その3を書いてから、あれこれあって、続きがかけなくなっていました。3/14(月)には、大学本部からの連絡があり、学生さんたちは、基本、実家に避難(疎開)ということが伝えられました。また、そのときには、福島原発の爆発もあり、どうなるか分からなかったので、研究室の換気をやめる、窓を開けないなど、RIを普段閉鎖系で使っている、生物系の人たちの迅速な対応と思いました。また、昔の遺伝生態研にある、ガイガーカウンターで、いつもバックグラウンドとどれくらいかというのが、話にのぼり、その当時で、何も起きてない時期の3倍くらいだったような気がします。3倍と聞いて、結構、こちらは、びびりました。どうも、RIは苦手です。。。

 研究室でその件を発表しつつ、山形、新潟経由での避難、疎開ルートを調べるために、高速netではないですが、パソコンで検索をして、どうすればよいかなどを調べ、テレビでの情報を集めました。また、学生さんたちとは、まず、携帯での連絡をするために、addressの交換をして、できるだけ早く、避難をということになり、解散でした。こちらは、別の件で、農学部まで出かけて、農学部長の山谷先生と学会がなくなったことなど、議論できたのは、有益でした。

 帰り際には、アルバイトをしている1年生の方が、小学校に被災しているというので、伺って、できるだけ早く実家に帰るようにと。そのときに、いろいろな話をしてもらい、地震がどれだけ心に痛みを与えたのか、つらい思いをさせたのか、痛感しました。お許し下さい。

 夜のうちに、学生さん、アルバイトさんから連絡があり、翌3/15(火)には、一部の学生さんをのぞいて、避難をはじめ、夜には自宅に戻れたという連絡を受けて、ほっとしました。このあたりでかなりほっとして、15日の午前、16日(水)は動けなかったような記憶があります。

 このあと、どうなるのか、それはまさに、福島原発がどうなるかと言うことについて、かなりの注目というか、気になりながら、少しずつですが、研究室の居室から、片付け始めたというか、並べ始めたというか。。。続きは、また、近いうちに。。。


 わたなべしるす

oleracea_全景_1.JPG PS. 今日もずいぶん、余震がありました。また、今日、3/23(水)には、水道から、放射性同位元素が、限界以上に検出され、また、農作物、それも、特にアブラナ科野菜に出荷制限が。。。アブラナ科作物を研究しているものとしては何ともいたたまれない状況です。。。。これまで、写真を入れるのが、つらかったのですが、アブラナ野菜の被害が出て、畑に埋められた野菜が哀れで。。

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風評被害のアブラナ科作物は、バイオエネルギーにというのは。。(3/22)

2011年3月22日 (火)

 福島原発の関係で、農作物が畑にすき混まれているのを見て、農学を学んだものとして、涙が出る。あそこまで作ることにどれだけのエネルギーがかかったのか。大変だったと思う。では、使い様が全くないのか。アブラナ科作物であれば、最後には花が咲いて、種ができる。その種をしぼると、油になる、いわゆるなたね油である。これは、バイオディーゼルである。こんな使い方はできないのだろうか。そうでなくてもエネルギーがないといっているのに。そうすれば、多少は、今の状況は回避される。

 また、他の作物も、糖に変換できれば、バイオエタノールになる。柔らかい分、使いやすいのではないだろうか。世の中が、パニックの状態なので、こんなことを考えても実現は難しいのかもしれないが、こんな時にこそ、こうしたことを考えるようにすれば、作物が太陽エネルギーを変換したものを効率的に利用できないのだろうか。

 そんなことをふと思った次第である。もしかしたら、豊作で出荷調整が起きたときに、同じようなすき込みがあったときにも思いついたのかもしれないが、そのときに書いておけばと。まさに、備えあれば。。。である。


 わたなべしるす

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HP・TOPに震災関連・リンクを追加しました

2011年3月22日 (火)

今回の東北・関東大震災に伴い、HPTOPに震災関連・リンクを追加しました。

大学としての対応は、東北大学HP他、各学部の臨時HPを参照頂きたく、お願いいたします。

現在メールサーバーが復活し、お問い合わせフォームが使用可能です。

当研究室へのご連絡・お問い合わせにご利用ください。

今後の研究室については、HPのTOPや渡辺先生のエントリなどでお知らせいたします。

どうぞよろしくお願いいたします。

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増子(鈴木)です。

東北・関東大震災で被災された皆様に、心よりお見舞い申し上げます。

震災の際、私は仙台の自宅におり、急いで机の下に隠れて難を逃れました。

電気ジャーが飛んできて、ピアノが動き、本棚が崩れ、食器がすっかり割れました。

しかし、家自体と家族には幸い被害がありませんでした。

その後、ラジオで津波の甚大な被害を知り、愕然としました。

停電復旧後、テレビで津波や原発の映像を見て、茫然としました。

 

私の地区は停電が3日間、断水が4日間続きましたが、現在は復旧しています。

震災後に撮っていた写真をいくつかご紹介します。

 

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11日、地震直後の自宅台所。

床には落ちた食器やガラスが散乱し、電子レンジが落ちて壊れました。

 

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12日、断水を免れた公園に並ぶ人々。

ちょろちょろしか出ない水道に3時間以上並んだそう(私は諦めて帰りました)。

震災後2~3日は市内の給水所も少なく、水を得るのが大変でした。

近所の建築会社さんがボランティアで水を山形から汲んできてくれ、とても助かりました。

 

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12日の某スーパー。朝から長蛇の列でした。

店員さんたちが散乱した店内から少しづつ商品を出して、一生懸命売ってました。

現在は店も片付き、だいぶ商品が入るようになりましたが、行列は変わりません。

 

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今回の功労者、電気がいらない石油火鉢。

停電の間、3日間これで暖を取り、煮炊きして過ごしました。

母が2000年問題の際に買ったそうですが、11年の時を経て大活躍。

 

仙台市中心部は少しづつ店が開き始め、物が巡りはじめています。

しかし、甚大な被害があった海沿いの市や町では。。。

どうか、被災地の復興に力を、心を下さい。

復興には長い時間がかかりますが、私も少しでも力になれるように尽くしたいです。

 

増子(鈴木)

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