17日(木)には、web serverが復帰しました。それに伴い、学内のLANが学外とつながりました。通じた最初の頃は、不思議なことがいくつかありました。ハブを使って、何段かに分岐させていて使っていましたが、それらのハブが使えなくなりました。今週になって、その一部は使えましたが、その理由はよくわかりません。やっぱり、電気の世界は、よくわかりません。さらに不思議だったのは、この日だけだったのか、夕方には回復したのか、学外からはlabのHPを見ることができるのに、学内からは見えない。研究室のパソコンからは、自分のlabのHPが見えないという不思議なことが起きました。
この週のうちには、自分の本棚をある程度元通りに復活させ、並べ直してみながら、やる気を探ろうとしていたのかもしれません。年度末の報告書の書類などがありましたが、そのままでした。
18日(金)の14:46はちょうど1週間でした。テレビではなくなられた方に対して「黙祷」という場面があり、それにあわせて、黙祷しました(黙祷)。
19日(土)~22日(火)は、本当であれば、東北大の川内キャンパスで、日本植物生理学会のはずでした。この数日間に仙台に残っていた研究室関係者の2名が実家に避難し、仙台が実家であるものを除いて、避難が完了したのでした。19日には、mail serverが夕方に復帰しました。迅速な復帰に努めてくれた、server管理の方に感謝します。ありがとうございました。mailerをあけてみると、100通を超えるような安否確認のようなmailを頂きました。国内外から。ありがとうございました。
雨とともに、放射能汚染された雨が降るのではと、かなりびびった生活をしていたのを覚えています。そんなときに見つけた、理学部・物理系の先生のHPには少し心救われたものがありました。何より正確な情報に基づいて行動することが、サイエンス同様に大事であることを実感しました。
22日(火)からは、復興に向けたという点かもしれないですが、研究室で使えなくなった備品類の調査が入りました。急ぎの調査ということで、周りの方にお手伝い頂きながら、まとめることができました。また、温室の止まっていた水道も復帰し、水をほしがっていたBrassicaの仲間に水をあげることができました。また、非難されている皆さんと連絡でき、帰省先で安全に生活しているということ、また、研究室のこと、実験のことを気にして頂いていることに、感謝でした。皆さんが戻ってきて頂けるようにまた、環境を整えたいと思います。また、復旧にお手伝いいただければと思います。
23日(水)~24日(木)には、高田くん、大坂くんがlabの方に来てくれ、植物を植えていたポットがこぼれて土まみれになった研究室が、割れたガラスが取り除かれ、ずいぶん、きれいになりましたが、実験台は地震で大きく降られて、天井のコンクリートに打ち込んである太さ1cmくらいの鉄の棒が、天井に大きな穴を開けていました。それに伴い、実験台は、左右に振られて傾いていました。渡辺の方が年度末の書類などに追われていた中でしたので、心強い限りでした。高田くん、大坂くん、ありがとうございました。
25日(金)頃になると、疲れがピークになり、作業効率が落ちるだけでなく、どうも何をやろうとしているのかなど、ふと気がつくと、ボーとしていることが多くなりました。土日は少し休んで、来週に備えたいと。この週あたりからは町中に出ると、ガソリンスタンドに長蛇の列ができ、一方で、開いている店、食堂も少しずつ増えてきました。ちょうど2週間です。ただ、交通量は少なく、早めに消灯するところが多いのも事実でした。
25日(金)あたりから、公共交通機関、ガスの復帰のめどの話が流れ始めました。普通となっている東北新幹線、那須塩原と盛岡間も1ヶ月くらいだと。ガスも1-1.5ヶ月くらいだと。地下鉄は、5月の終わりには。少しずつ、何とかなりそうという気がしますが、このあたりになっても安定しないのは、福島原発。仙台での放射線量は、通常の3倍くらいですが、今まで閉鎖系で使っていた放射性同位元素が、外の解放系に存在するという違和感には、未だになれない状態です。どうしてもガイガーカウンターの音が、頭の中で鳴ります。。。。
そうです。この週の前半には、西日本の方々から、とある方法で、援助物資を頂きました。とある方法はここでは、企業秘密ということでお許しください。昔は「逓信」と呼ばれていた公的機関だったところのものを使えばよいということくらいで。。。送って頂いた方に、感謝します。ありがとうございました。おかげまで、毎日の食生活が支えられています。
夕方には、出前講義などでお世話になっている宮城第一高校の小松原先生が訪問され、研究室の惨状を見て頂いたり、次年度に向けた打合せなどもできました。同じタイミングで、SSHで講義などを小なっている福島高校の橋爪先生からも電話頂きました。福島市内の放射能汚染が高いのが気になっていましたが、物理の先生が計算してくれたらしく、少しずつ減衰しているので、大丈夫と。それでも気になるような高い値だと。くれぐれもご自愛ください。
わたなべしるす
PS. 実験、研究を含めて、すべてのことには、あらかじめそれに気がつくような事象、警告があるものだと思います。それに気がついて対応するのか、それを無視して、それが結果として大きな問題につながるということがあるということを思い知らされたような気がします。「想像を超える」という言葉では片付けられないという気がします。サイエンスの発展の時にも想像を超えるということは、当たり前のような気がしますので。そんなときに、昔見た、歴史番組で、「万が一の時になって、思いをめぐらすのではなく、常日頃から非常の事態に備え、一生懸命にわが身を生かす心構えを養うべきである。」という言葉があったのを思い出しました。いつ頃の誰の言葉かわかりませんが、今回、思い知らされたような気がします。
それぞれの本質が起きる前に起きる予兆的なことに気がつくことができれば、研究ももう少しよくなるような。というか、それが、経験と勘というものなのかも知れません。こうしたら、こうなるというような勘が働くことがあります。あるいは先のような歴史が物語ることもあります。それらを大切にして、これからに活かすのが、サイエンスをやる上でも、人生でも大事なのだろう。
この週のうちには、自分の本棚をある程度元通りに復活させ、並べ直してみながら、やる気を探ろうとしていたのかもしれません。年度末の報告書の書類などがありましたが、そのままでした。
18日(金)の14:46はちょうど1週間でした。テレビではなくなられた方に対して「黙祷」という場面があり、それにあわせて、黙祷しました(黙祷)。
19日(土)~22日(火)は、本当であれば、東北大の川内キャンパスで、日本植物生理学会のはずでした。この数日間に仙台に残っていた研究室関係者の2名が実家に避難し、仙台が実家であるものを除いて、避難が完了したのでした。19日には、mail serverが夕方に復帰しました。迅速な復帰に努めてくれた、server管理の方に感謝します。ありがとうございました。mailerをあけてみると、100通を超えるような安否確認のようなmailを頂きました。国内外から。ありがとうございました。
雨とともに、放射能汚染された雨が降るのではと、かなりびびった生活をしていたのを覚えています。そんなときに見つけた、理学部・物理系の先生のHPには少し心救われたものがありました。何より正確な情報に基づいて行動することが、サイエンス同様に大事であることを実感しました。
22日(火)からは、復興に向けたという点かもしれないですが、研究室で使えなくなった備品類の調査が入りました。急ぎの調査ということで、周りの方にお手伝い頂きながら、まとめることができました。また、温室の止まっていた水道も復帰し、水をほしがっていたBrassicaの仲間に水をあげることができました。また、非難されている皆さんと連絡でき、帰省先で安全に生活しているということ、また、研究室のこと、実験のことを気にして頂いていることに、感謝でした。皆さんが戻ってきて頂けるようにまた、環境を整えたいと思います。また、復旧にお手伝いいただければと思います。
23日(水)~24日(木)には、高田くん、大坂くんがlabの方に来てくれ、植物を植えていたポットがこぼれて土まみれになった研究室が、割れたガラスが取り除かれ、ずいぶん、きれいになりましたが、実験台は地震で大きく降られて、天井のコンクリートに打ち込んである太さ1cmくらいの鉄の棒が、天井に大きな穴を開けていました。それに伴い、実験台は、左右に振られて傾いていました。渡辺の方が年度末の書類などに追われていた中でしたので、心強い限りでした。高田くん、大坂くん、ありがとうございました。
25日(金)頃になると、疲れがピークになり、作業効率が落ちるだけでなく、どうも何をやろうとしているのかなど、ふと気がつくと、ボーとしていることが多くなりました。土日は少し休んで、来週に備えたいと。この週あたりからは町中に出ると、ガソリンスタンドに長蛇の列ができ、一方で、開いている店、食堂も少しずつ増えてきました。ちょうど2週間です。ただ、交通量は少なく、早めに消灯するところが多いのも事実でした。
25日(金)あたりから、公共交通機関、ガスの復帰のめどの話が流れ始めました。普通となっている東北新幹線、那須塩原と盛岡間も1ヶ月くらいだと。ガスも1-1.5ヶ月くらいだと。地下鉄は、5月の終わりには。少しずつ、何とかなりそうという気がしますが、このあたりになっても安定しないのは、福島原発。仙台での放射線量は、通常の3倍くらいですが、今まで閉鎖系で使っていた放射性同位元素が、外の解放系に存在するという違和感には、未だになれない状態です。どうしてもガイガーカウンターの音が、頭の中で鳴ります。。。。
そうです。この週の前半には、西日本の方々から、とある方法で、援助物資を頂きました。とある方法はここでは、企業秘密ということでお許しください。昔は「逓信」と呼ばれていた公的機関だったところのものを使えばよいということくらいで。。。送って頂いた方に、感謝します。ありがとうございました。おかげまで、毎日の食生活が支えられています。
夕方には、出前講義などでお世話になっている宮城第一高校の小松原先生が訪問され、研究室の惨状を見て頂いたり、次年度に向けた打合せなどもできました。同じタイミングで、SSHで講義などを小なっている福島高校の橋爪先生からも電話頂きました。福島市内の放射能汚染が高いのが気になっていましたが、物理の先生が計算してくれたらしく、少しずつ減衰しているので、大丈夫と。それでも気になるような高い値だと。くれぐれもご自愛ください。
わたなべしるす
PS. 実験、研究を含めて、すべてのことには、あらかじめそれに気がつくような事象、警告があるものだと思います。それに気がついて対応するのか、それを無視して、それが結果として大きな問題につながるということがあるということを思い知らされたような気がします。「想像を超える」という言葉では片付けられないという気がします。サイエンスの発展の時にも想像を超えるということは、当たり前のような気がしますので。そんなときに、昔見た、歴史番組で、「万が一の時になって、思いをめぐらすのではなく、常日頃から非常の事態に備え、一生懸命にわが身を生かす心構えを養うべきである。」という言葉があったのを思い出しました。いつ頃の誰の言葉かわかりませんが、今回、思い知らされたような気がします。
それぞれの本質が起きる前に起きる予兆的なことに気がつくことができれば、研究ももう少しよくなるような。というか、それが、経験と勘というものなのかも知れません。こうしたら、こうなるというような勘が働くことがあります。あるいは先のような歴史が物語ることもあります。それらを大切にして、これからに活かすのが、サイエンスをやる上でも、人生でも大事なのだろう。